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資産?いや不良資産 [日記]

私は旅好き、それもできるだけ放浪に近い旅をしたいとか、そういう事もあって、自分の棲む家をどういう形でどこに手当てしようか、そう考えた結果、多少駅から遠くてもバスの便のよい、周囲に緑のある環境の地にあるマンションを、と購入した。いや、その時点ではまだ建ってもいなかったのだが。

しかし、幸か不幸か、仕事の事情で竣工したそのマンションに住むことなく、年月が過ぎ、やっと入居できた時には父親が死んで、実家に戻らざるを得なくなってしまった。

という事で、昔ならば、資産として賃貸等で運用してそこそこの収入を期待できるのだが、自分が住みたい立地という事で私にとってはかなり高額の金を払った物件が、ここにきて少子高齢化の影響をまともに受けるのではないかと、不良資産に変わりはしないか、あまり俗っぽいことには関心を持ちたくない私も、地価や空き室の増加というニュースには敏感になってしまっている。

都心のど真ん中ではないので、持っていても資産価値として上がる見込みはない。
かと言って手放せば片手、つまり五千万近い損失になってしまう。
はてさて、どうしたらいいか、人間生きていると次から次に悩みが出てくるものである。

一応、首都圏の県庁所在地には位置するので、今後下がっても、既に下げ止まりに近いところに来ているので、このまま賃貸で固定の収入を当てにした方がいい、そういう友人の意見もあったが、その中には外国人が不動産を購入するから、今後、リスクになるほど下がるわけがない、というものもあった。

自分としては自分の住宅用として購入したもの、こういう形になることは不本意だし、第一、外国人が購入したとして、彼らが住むのか、あるいは賃貸として貸すのか知らないが、あまり得体の知れない外国人が増えて、ご近所トラブルに巻き込まれたくもない、そういうものも出てくるし、なかなか、悩ましさからは抜けきれない。

いや、今日、管理をお願いしている会社の担当者と会っての話だったのだが、自分がまじめに生きてきて自身の環境にこういう形で影響されるとは思わなかった。
これが金のある連中は、都心でより高額のリターンを得るのだろう、そう思うと、やっぱり税制の不公平感を無くす事は必要なのだろうと思う。

汚名 [日記]

車で出かけるかどうか、朝から空模様を眺めていたが、出かけようと準備しようとした途端に雨が降り出してきたので、今日の外出は控えることになった。

私の場合、車で外出する場合、簡単に、さっと出る、そういうわけには行かないのだ。

これは私も既に免許を持っていた時だったが、学生時代に清涼飲料の配送助手のアルバイトをしていた時、社員のドライバーが意外と運転という事に気を使わず、フロントガラスが汚れたままで車に乗って、ウォッシャーとワイパーで視界を確保するというやり方をしていた時、途中で雨模様になった際に、ワイパーでどうにもフロントガラスの視界確保がうまく取れなかったという事を経験した事による。

つまり車での外出の際にはフロントガラス、リア、サイドとガラスを水雑巾で濡らした後、その水気を取るという二度拭きをするのが、私の出かける際の行事なのだ。

これほどのことをする人間が家を出てたいした時間が経たないうちに何ら興味をひかれるものでもない道路際の佇立している車両誘導員に興味をひかれて脇見をして自分の前方の横断歩道を走行している人員乗車の自転車に突っ込んだなどと言い掛かりをされて、犯罪者とされ、しかも実名入りで新聞掲載されているのだから、車の窓ガラスを拭く度に腹が立ってしょうがないのである。

少し前のブログでも書いたが、このブログ訪問の皆さん、狭義にはこういう事、責任はない、そう言ってもいいと思う。しかし、広義には知って何もしないことは加担したも同じ、そういう事になる。何故ならば、私を嵌めた警官・検察官、そして罪に落とした裁判官達は皆さんが税金で雇用しているのであり、不適当であれば解雇なり、逆に刑務所に入れるなりの処置をせねばならない責任を持っている、そういう事なのだ。

残念ながら、私の汚名、多くの人達に話をし、知らしめることをしてきているが、全く晴らせる目処が立っていない。
今、この時も、私の人権は制限されているのだ。

結局、私としては、私に汚名を着せた連中と同じに私を嵌めた連中も皆さんの目に彼らの名前が目につくように実名でこのブログに載せ続けていくしかない。

一番の犯罪者は私から言わせれば一審裁判長を務めた栗田健一なのだが、この人物のように名前を挙げていけば紙面がほとんど名前で埋まってしまうほど多くの裁判官は悪行を為している。はっきり言って、見識というものからはほど遠いのだが、皆さん、そういう事、理解できないだろうと思う。

現時点では、既にパソコンレベルでの判決判定機あるいはソフトと言ってもいいだろうか、そういうものの方が圧倒的に上である事、私は断言できるのだが、しかし、相変わらずテレビで報道される裁判官達の表情、私から見るとクソでしかないのだが、皆さんにはどう見えているのだろうか。

戦中派、意外と知らない戦時中の状況 [日記]

私は俗に言う戦後派である。
物心ついた時、豪華なものに憧れた、という事はなく、自分の暮らしが決して豊かであると思った事はなかったが、うすうす貧しい、そうは思ってもそれを嫌だと思うほどの貧しさではなかった。

戦後の闇経済の中でよっぽど悪い事をした人物の家庭でない限り、多くの日本人はその貧しさを甘受していた、そういう時代であり、我が家も父親が勤めていた会社の社宅に住んでいたために、似たような家族構成と家庭環境であったことで貧しいとは思っていても、周囲と較べて貧しさが際立っていた、そういう事でなかった事は子供心にも理解していたのだと思う。

物心ついた時、私の家族は都内に住んでいたのだが、ある時、遊んでいた子供の数が急に減った。その意味を知ったのは、たまたま通り掛かったところの建物に同じ世代の子供が多数、いる事を見つけた時であったが、しかし、それが何を意味するのかは知らなかった。

私達家族が住んでいた社宅は今で言う一部上場企業の社宅なので、社員の給与が一般よりも大幅に安かったという事はないと思う。その社宅の中でどれだけが、その建物、すなわち幼稚園に通っていたかは知らないが、社宅周囲から遊びに来ていた子供の数が激減しただけで社宅の中の子供はそれほど減っていなかったように思う。

しかし、その幼稚園の意味を知ったのは小学校上級学年になってからだったろうか。
たまたま通りに面したところに幼稚園があったことでその存在を知ったわけだが、そういう事がなければもっと遅かったかもしれない。

親が教育に無関心だったわけではないのだろうが、やはり貧乏だった、という事だろうか。だが、このケースは別に誰かが隠そうとしたわけでもない。

ところで私達は新聞テレビで戦争中に学童疎開があったことを知っているのだが、母親は、その事を知らなかったというのだ。いや、小学生が勤労奉仕で会社に来ていたとさえ言っている。母親が住んでいた地域は軍需工場もあり学童疎開があって叱るべきところだったはずなのだが。

また、北海道が爆撃されたかさえ知らないというのだが、戦時中だから報道が信用ならない時代という事もあって、そういう事に関心さえ持てていない、そういうのだ。他にも知らなかった事、いくつか言っていたが、むしろ戦後派の私達の方が知識としてはあるのだろうと感じている。

大本営発表という発表する側に都合のよい情報統制で、そのうち勇ましい戦果発表の割には食物が乏しくなり空襲まで行われるようになっては、庶民は何を信じていいのかわからずに、段々細かい事には無関心になっていったという事だろうか。

他にも何やら言っていたが、操縦士の顔が分かるほどの距離で戦闘機に狙い撃ちされたこともあるという恐怖は体験したものでなければ分からないことかも知れない。そういう経験をしていくと、もうあまり細かい事には関心が無くなるのかも知れないが、戦時国債等を含めて戦前・戦中の財産は紙切れ同然になってしまい、転居を重ねて、貴重な財産も多くは行方不明になったという。

情報は与えられない、財産は無くなるでは、庶民も浮かばれなかったと思うが、この国では国民の為に国家が何かを成し遂げたという、そういう歴史的なものはあるのだろうか。

日本語は難しい [所感]

このブログを定常的に訪問されている諸氏はだいたい私の表現、あるいは書き方などで多少変換間違いなどあっても、趣旨を理解されて言わんとする中身を読んでいただいていると思う。

ワードというソフト、熟語で出てこない場合、漢字一字ずつの変換を試みると、その意図を透かしたように、本来存在するはずの読みでも出てこない場合があるので、何と底意地の悪いソフトか、そう思ってしまう。

そういう煩わしい変換ソフトなど使っていると、ついつい、こんなものでいいか、そう思うものに言い回しがある。

”瞳を閉じて”とは、どうやるのだろうか。”瞼を閉じて”とどう違うのだろうか。
グラス飲み干す”ってガラスを飲み込んだらお腹の中で割れたりして危険ではないのか。”グラスの中のブランデーを飲み干す”じゃないだろうか、などと細かい事を言い出したらきりがない。もっともこれらは漫才ネタとして使われそうなものだが。

いやいや、これらは歌番組などを見ていると出てくる歌詞の一部なのだが、正確に書くと、いかにも直接的、そのようになってしまい、文学的表現としてはかえって稚拙、とされてしまったりするのだから本当に日本語は難しい。

で、冒頭のワープロについての表現と結びついてくるのだが、ややこしい表現など使ってワープロで変換しにくいものなど結局、簡略化ではないが、簡単な表現に結果として収まる、つまり文章の単純化に繋がるのではないか、そう思う。

事実をありのままに書くといかにも説明的で文章としてはしつこい、そういう事になる。歌詞などの場合は韻を踏んだりするので説明的にしつこいものとか韻を外してしまう表現は避ける。つまり結果として聞き手が書き手が伝えたかったイメージをその歌詞から作り出せればいいのだが、しかし、こういうもの、前述のように漫才ネタにもなってしまう。

それで伝わるのならば細かい事を言わなくても、そう思うのだが、しかし、省略したり、慣用的に用いたものを間違った解釈で使われることが起きてくると、これもまた考えものだ。

こういう事を考えていると、対象を絞って、わかる人だけに分かる、そういう事をしていかなければならないのか、そう思ってしまうのだが…。

しかし、こういうもの、国家が国民などに分かるはずはない、などと情報開示をサボることとは違うのだが、どうしてもお馬鹿な行政サイドが国民を馬鹿にして情報開示をサボる方向に行っている気がして仕方がない。

日本の行政は情報開示をサボってきたが故に、それが通ると勘違い、だんだん土壺にはまるように、都合の悪いことは情報開示拒否していける、そういう体質になってきているようだ。こんなものいずれ官僚の腐敗に繋がる事分かっているのに、それを是正しなければ政治の意味がない。

今の既成政党は情報をできるだけ国民に開示せずに政治の場だけで処理、あるいは墓場まで持っていくのが政治の役割だと思っているようだ。

しかしこれほど国民を馬鹿にしている話はないと思うのだが、野党時代に情報開示を求めていた民主党にして、政権に着いた途端に、情報を止めてしまった。

皆さんも覚えているだろう、野田佳彦という前首相を。財務省が財政再建を旗印に各種予算をカットする風を装っていながら、朝霞の公務員宿舎建設を進めた事を。ゴーサインを出したのは、野田佳彦が財務大臣時代の事。

だが、財務大臣が自ら公務員宿舎を建設してはどうか、などと財務官僚に言うわけがない。これは財務官僚の方から口八丁手八丁で野田佳彦に建設許可の判を押させた。

あれだけ明らかに公務員宿舎建設など国民の賛同など得られない、国民なら分かるそういうものを官僚に許可する政治家、という構図が日本にはある。財政再建が最優先という日本の国家財政において、もっとも優先度が低いと思われるものをそれも財政再建を金科玉条の如く言わねばならない省が、推進する無能さ。

これは一つの事例であって、そもそも財政再建にしたって、官僚が野放図に国民の年金の原資や税金を自分たちの天下り先や利益誘導という裏の目的のための公共工事等に使いまくったという、おおよそ国民に奉仕する公僕とも言い換えられる職業の官僚達の呆れるばかりの所業。

その程度の官僚、そしてその上にいると勘違いしている政治家達が我々国民より本当に自分たちがおつむの点で上にいると思っているのだろうかと、私など呆れてしまうのだが、彼ら自身はそう信じているのだろう。だからこそ、馬鹿な国民などに分かるはずはないと、情報開示どころか隠す方向にしか国民の大事な情報を持っていっていない。

伝えたいことが皆さんに伝わったかどうか。
やはり日本語は難しい。

過ぎたるは及ばざるが如し [所感]

通称イスラム国の日本へのテロ発言を誘導した安倍晋三の中東訪問だったが、国民に負託された行政、つまり国民の安全・安心を託された立場であれば、もっと慎重な行動が求められて然りである。

自己責任と、殺害された二人を突き放す言葉は政府から出ていないが、これもまた、然りである。拘束されてはいても、殺害するという話のなかったところに、安倍晋三の訳のわからない人道支援なる言葉で、彼らを挑発したようなものだからである。

テロがよくない、ということは大多数の人間が肯定するものだと思う。
しかし、その背景について、今の世界情勢や南北あるいは同一国内での格差等を放置していれば、テロの種は永久になくならないだろうし、また、テロ分子へのテロリスト供給はなくならないだろう。

働きたいと思っても働く場がない閉塞感。これは移民によって職が奪われていると感じる欧州の若者に共通したものだ。もちろん、彼らはテロリストではない。だが、極右と呼ばれる民族主義あるいは排他主義に繋がっていく。

これらは、欧州に移民した連中やあるいはその子弟に対して差別的に行動することになるが、そういうものが移民者達の子弟、特にイスラム社会から来た移民にはイスラム教自体も否定された、とイスラム教の穏健派に対してさえ、反発する下地を作る。結果、過激な思想・行動に走るテロリストの誕生である。

お金を生かすのではなく、お金によって被差別者の支配をしていくような今の資本主義社会は格差を拡大し被差別者達の閉塞感ばかり増長していく。これらは社会の不安定さに繋がっていくのだが、これらが全てイスラム社会だけのものと勘違いしていると、大きな火傷をする。

過ぎたるは及ばざるが如し。あんまり社会弱者をなめていると大きなしっぺ返しがあること、歴史は証明している。

健全な投資は社会として歓迎すべきものだが、投機は社会の歪みを拡大するだけであり、リーマンショックで、いい経験をしたはずであるのに、未だに株価優先等たいした縛りもなく、野放図に格差拡大に政策が寄与している日本。

こういう事を見ていれば、安倍晋三の中東訪問以前にテロリストに目をつけられる国家となるのは必定というところか。

円安誘導だけでなく、あまりに市場に金が流れれば、それらによって投機マネーが巨大化し、貧富の格差拡大に火を着ける。そのくらい通称イスラム国の連中だってわかる。
同じ日本国民が税の不公平感を持って、格差の拡大を良しとしていないのに、イスラム系のテロリストが、日本が反イスラムではないからイスラム系のテロリストが日本を標的にしないなどという事はない。

皆が富めるように、中庸の精神で、格差縮小など、弱者への気配りをしていける政権であれば、よっぽどおかしなテロリストでない限り日本を標的になどと言う話は出てこないだろう。

東京マラソンランニングポリスなどというおかしなもの出現して、マスコミなど話題性もあって当たり前のように受け入れているようだが、安倍晋三の軽率な言動をしたことに依る結果として出てきたものであり、国民の安全・安心を託された行政のトップの行動としては失格である。

国民のコストを下げるどころか上げる事ばかりやって、現状の消費税では足りないなどと言うなかれ、である。

原子力発電所の設計思想 [社会]

皆さん、設計思想という言葉があることご存知だろうか?

文系出身者でも製造業に携わる人なら聞いたことがあるかも知れないし、理系出身者でも聞いたことはあっても具体的にどういうものを指すのか、知らない人も多いかも知れない。

その昔は、機能優先という事で設計思想に安全などという考えは一部、石油あるいは石油化学プラントのように機器の故障が火災やプラントの生死に関わるような重大事故に繋がるようなものを除いて考慮さえされていなかったように思う。

”思う”というのは、私が知る製品類でそういう話をついぞ聞いたことがなかったためである。いや、車も例外か。日本が遅れている、そういう指摘のあった時期、ボルボやドイツ車などは、しっかりとした思想があったように思う。だが、日本人として見た場合、車も断言できるほどの安全面の設計があったとは言えないのははっきりしている。

清涼飲料の配達のアルバイトをしていた時に、アメリカ車が駐車していて、仕事そっちのけで、配送の社員が、さすがアメ車はスピードが出る分、ごっついなあ、そう言って、所有者がいない事を幸いにドアを開けてその分厚さなど感心していたが、厚さだけで20cmは優にあろうというドアに圧倒されたものだ。

さて、本論に戻るが、原子力工学の専門家達は原発建設の御用学者になるのが、そのエリートコースのようになっており、原発建設の是非をテレビ討論などで発言する場合も、反対派を、何も知らない素人として、丁寧な説明無しに鼻でせせら笑っていたシーンが記憶に残っているのだが、さて、彼らの設計思想は何だったのだろうか、そういう疑問が事故の起こった後、私には思われてならないのだが、どうなのだろうか。

ホリエモンは想定内、という言葉で多くの岐路を乗り切る自信を示したが、想定外は彼の部下であったはずの連中の裏切りと検察や裁判所の、法の解釈の変更という既存の法律の適用による違法行為と決めつけられたものだったのではないだろうか。

しかし、こういうもの、人為的な対応で有罪無罪が分かれてしまうというたいしたものではないのだが、原発は事故もそして、事故でなくてもその放射性廃棄物という人間が制御するには厄介なもの、これらについて全く見通しのないもの、見切り発車をしただけに過ぎない設備だが、結論からいえば設計思想があったとは言えない代物である。

被ると窒息する危険性があります等家電製品や玩具類の入っている箱等に製品の入っているビニル袋でさえ、そのように警告として消費者向けに出しているのが今の、消費者向けの製品である。消費者の取り扱いようによっては、製品本体ではなく、付属品や包装目的のものにでさえ消費者に警告している。だが、自らが消費者に害を与えるものとか、可能性があるなどという事はうたっていない。

ところが原発は、その立地住民がどれだけ気をつけていようが、一度事故が起これば、私は原発に関与していない、などと周辺住民が言おうが言うまいが、その放射能に害を及ぼされる。

ここに想定外などという言葉は通用しない。
福島原発の事故について東電の関係者を告発した件について、検察は、東電関係者を不起訴としている。だが、前述のように想定外などという逃げ文句の通用する設備ではない。想定外を持ち出した時点でその商品だったり設備は破綻しているし、設計思想などという高尚なもの、存在していなかったと言えるのだが、果たして原発関係者及び御用学者達のどれだけが、設計の根幹を理解しているだろうか。

人間が制御できない対象について設計思想などというものは存在しないのだが、どうも一部御用学者達には、そういう事理解できていなかった節がある。
その理解できていない人物達の作り上げた設備を稼動させるのはいかがなものか、そう思うのだが、次に事故が起こっても想定外と逃れるのだろうか。

NHK朝ドラ”まっさん”と変わらない景色 [所感]

食事に重なるので、どうしてもその時に放送されているものを見てしまうのだが、その中にNHK朝ドラがある。
実は我が家、あまりNHKを見ない。こういう状態で視聴料を取られること不満に思うのだが、まあ、放送技術他の向上にNHKが貢献していることもあって、その不満を収めている。

したがって、あまりに馬鹿馬鹿しいものを除けば、朝ドラなども見るようにしている。
という事で、今の朝ドラも見ているのだが、まっさんの妻のエリーが特高に引っ張られるシーンが出てきた。

まあ、ドラマだし、正確に当時の事が再現されているという事ではなく、こういうものだっただろう、そういう趣旨で描かれている、その事を念頭に見なければならないと思う。

であるにしても、この特高に引っ張られるシーン、私が受けた検察の取り調べを思い起こさせるものであった。

問題のシーンはエリーというスコットランド出身の女性を、人間そのもので見るのではなく、その属性等で強引に合理的理由なく引っ張るというシーンだが、これ、戦争に入った、旧大日本帝国という主権在民が憲法にうたわれる前の体制下での話である。

ところが、主権在民という新憲法の体制下の検察の取り調べで私が体験したものと酷似しているのだから。それを思えば、今の検察がとんでもないこと、おわかりだろうか。

理屈も何もあったものじゃない。とにかく罪に落とそうと、恫喝、威嚇、罵詈雑言、私に当たりこそしなかったが、かおに指を突き立てようとしたり、とんでもない奴が今の検察にもいるのだ。
ところが、こういう事、裁判の中で、証言しても、私の作り話として裁判長を務めた栗田健一は私を嘘つきの悪人と断罪した。

自慢じゃあないが、栗田健一どころか他の裁判官だって私ほど、真実という事、正義という事をまっとうしてきた人物など数えるほどしかいない事は、その組織の悪評ぶりで想像がつこうというものである。

一般の人は特高のようなもの戦前の過去のものと思われるかもしれないが、とんでもない。嘘はつく、罠は嵌める、恫喝、威嚇何でもありなのだ。

当時厚生労働省の局長だった村木厚子さんを嵌めようとして証拠捏造を図った検事は、発覚したから刑務所入りしたのであり、あれは特捜という複数の検事が絡んだからこそ、表に出たのであり、通常の取り調べなどは、担当した検察官の一存で全て前に進んで行くので、仮に裁判の途中で移動等で検察官が代わったとしても、決して、1度訴追した案件の見直しはしない。

つまりあくまで罪に落とそう、そういう動きしかしない。
私がその様子を述べた検察官、未だに悪評高く、検察で働いているらしい。私が検察に指摘しても、この事変わっていないし、処分を受けたという話も聞いていない。内務省の実質解体が行われていないので「おい、こら」の精神は未だに残っている、そう言ってよいようだが、こんなものあってよいわけがない。

冤罪被害者の気持ち [所感]

思いだしてみると私の裁判は東日本大震災を口実に地域設定の停電時間などがあり、高齢の母親を家に残しながら打合せに弁護士事務所を訪れ、帰宅が最終電車で夜中の2時頃という日もあったように思う。日本全体が暗澹たる状況の中、私個人はもっと暗澹たる有様だったのである。

いや、東日本大震災による停電の話が自身の打合せと直接関係なくとも、多忙な弁護士の時間には影響が出て、私など人の紹介で無理矢理、多忙な中、対応してもらう形であったために、どうしても深夜の打合せという事が多かった。

深夜、人どころか車もほとんど通らない大通りを一人淋しく帰る、それが自分の言う事実をなかなか弁護士が理解できず、往復5時間掛けて弁護士事務所に行っての徒労であれば、心身の疲労は倍加する。

深夜の帰宅は最寄り駅から自宅まで徒歩で30分もかかれば、途中の危険度はかなりのものであり、母親の心配も並大抵のものではない。そういう事で当初はタクシーを使っていたが、最終便ともなると捕まえ損なったり、タクシー待ちの時間が惜しいという事もある。

そうこうしている間に裁判費用が嵩んでくれば、タクシー代だって馬鹿にならない。結局、家と最寄り駅の往復を夏は暑い中、冬は寒風吹きすさぶ中、30分ほど歩くのである。当然体の消耗は激しい。
しかし、そういう事をしても裁判というものは報われないのである。

事実や真実が通用する世界でないのは多くの冤罪経験者が体験した事だと思う。私の場合は誰でもが分かる物証があるから、まだ、周囲や支援してくれる人を納得させることもできるが、痴漢等、物証を持ち出すことの難しい冤罪は、その被害に遭うと、これはもう全く、ストレスは大変なものだと思う。

物証があってさえ、知見、見識に乏しい御仁は、勝手な事をほざいて濡れ衣を着せたがる。いわく、他人の不幸は蜜の味、という奴である。いや、陰で悪口を言うのはまだいい方かも知れない。私に面と向かって「相手に済まないという気はないのか」、そのように非難してきた奴は、以前のブログで触れた共産党市議を含めて、一人や二人ではない。

世の中には悪い奴がいるもので、平気で嘘をついたりして人を罪に落とすのだが、それが一般人だけだと思っていたら、何と、一般人よりも事実を見定める能力に長けていなければならない、それを職業とするべき人物達が無実の人間を罪に落とすのだからやりきれない。

ところが一般の人が、こういう事を理解していないために、その傷口に塩をすり込むようなことを平気で言う。つまり無責任人間の代表なのだが、自分たちはそう思わずに正義の味方の代表のような口ききで、そういう事を言うのである。

痴漢の冤罪ともなればその汚名は大変だと思うのだが、無実を証明すべき警察や検察がよってたかって、でっち上げて有罪にしてしまうのだから、この落差によるストレスは大きい。自身にやましいところがなければ、国民として認められた裁判によって、潔白を証明する、そういう手もある。

そう思って、裁判に持ち込んでも、もっとがっかりさせられるのは、裁判官なのである。
むかし、テレビのプロレス中継でレフェリーが悪役の反則は取らず、ヒーローが痛めつけられるという場面の演出に一役買っていた、そういうシーンを思いだすように裁判官も冤罪を作り出す事に一役買っている。

冤罪被害を聞いても、何とかしてやろう、そう思わない人間が大勢だが、個人的に聞いたからと、それに協力しないといけないという義務は狭義にはない。だが広義で言えば、そういう事をする不良警官や不良検察官、不良裁判官は我々国民の税金で雇用しているのであって、我々はそういう不良連中の監視に義務を負っているのだ。

彼ら不良役人を飼っている責任があるという事は冤罪に対しても国民は広く責任がある事、感じて欲しいと思う。

群馬で馬鹿警官が小学生女児を誘拐しようとして発覚したが、、誘拐されなくて本当によかった。事の行き着く先は、結局、この女児の殺害でしかない。このニュースを聞いてそこまで思い至った御仁がどれだけいるか分からないが、誘拐という事実の前には一般人も警官も関係なく、その後も同じ。

全ての女児誘拐は発覚を恐れて殺害、という結果にいたっている。群馬県警が、どういう対応を見せるか、しっかり注目して欲しい。

以前都内で暴行しようと、女子大生の部屋を巡回に行った振りをして女子大生を襲って、抵抗されて殺害した警官が自身が第1発見者を装って、通報したという事件があったが、所詮猿智恵で、すぐにばれてしまったというものがある。

我が家の地区など警官の巡回など10数年全くない。であるのに可愛い子や、きれいな女性のいる部屋は必要もないのに頻繁に警官は巡回しているのだろうか。この制度も警官自体が信用ならなくなっている現在、工夫の余地があるのではないだろうか。

裁判官の見識 [司法]

このブログを見ていただいている方は、半信半疑でいる方も多いと思う。

私も裁判というもの、つまり逮捕された時には裁判になどなるようなものではない、そう思っていたので裁判所というものについて、それほど考えなかったが、留置されて、拘留が延長され始めた時から、警察や検察がどうもおかしいぞ、何故、現場検証に行かないのか、何故、科学検証を行わないのか、そういうところに来て、とにかく、身動きが取れないでは、高齢の母親の死に直結する、この事をまず、クリアしたい、そういう事で保釈請求というものを出した。

いや、その間弁護士が代わっており、代わった弁護士がとにかく保釈請求に拘ってもいたのだが、その前任の弁護士宛に出した親書まで私の許可無しに勝手に保釈申請に添付してしまうという裏切り行為までして矢継ぎ早に保釈請求を出している。

親書の内容は事案の事実を書いていたのだが、検察に見せれば手の内を見せることになり、裁判になった時に、その裏をかかれる恐れがあった。だが、裁判官としてみれば、内容は私を拘留すべきものではなく、事実として分からない裁判官であってさえ、保釈請求を却下するようなものではない。

だが、裁判所として、私の保釈請求は却下し続けられ、結局、高裁が、抗告として出した7度目の申請を認めるまで地裁レベルでは、その裁判所ではとうとう保釈許可されなかったのである。

留置場の警官もあるいは担当した弁護士ではない大勢の弁護士もそれほど交通事故で保釈が認められないというのは例を見ない、そういう印象を述べた事案である。

さて、最後まで保釈を認めなかった裁判所。実際の裁判が始まったら、その保釈を認めなかった裁判官がずらり、と裁判官席に並んだ。特に支部長を務めた栗田健一など、実際の公判では偏見に満ちた公判指揮を行った。

さて、このブログの訪問者諸氏はどうお考えだろうか。

私はこの裁判について、アドバイスしてくれた人物の意見に従って、裏切った弁護士を解任して、途中で違う弁護士達に依頼したのだが、この時、裁判官の忌避を提案している。だが、彼らははっきりした理由は述べなかったものの、忌避までの行為はしたくないと、そのままその裁判長の指揮の裁判で公判に臨み続けた。

はっきり言おう。
私だったら、私が裁判官だとして、自分が保釈請求の可否に関わった被告人の裁判には、既に当事者となり得てしまっているので、公判には臨まない.つまり他の判事にその裁判を委ねる。

理由はおわかりであろう。
保釈請求を却下し続けた、それも異常・異例と言われるほどの対応をした被告人相手であれば、自身の利害が発生してしまっているからであり、強盗殺人の被告人に言うような文言で保釈請求を却下し続けた裁判官が、あんたは無罪でした、では自分たちの保釈請求却下の理由がなくなってしまう。

裁判官としては大きなミスである。

つまり、そういう事になる人物を裁く裁判に臨むことは裁判官としての見識が疑われる事になるのだ。
だから、彼らと違って見識の高い私は、私が裁判官だったら、自分が公判を担当などしない、そう言ったのである。

これは高裁を担当した弁護士もおかしいですね、そう言っている。
つまり遅れている日本の司法界であってさえ、おかしな事なのである。
だからこういうおかしな事を平気な顔をして人を罪に落とした栗田健一という人物が罪に問われもせずにいる事もおかしいのである。

税金で食っている連中には、こういうおかしな事をすれば刑務所に入る、そういう義務を負わせなければ、冤罪など全くなくならないのだが、裁判所にはこういう世間でおかしいと思うものについておかしいと思う常識がない。

私の事案では、下手に他の裁判官に任せて無罪になってしまっては自分の経歴に傷が付くと思った栗田健一がどうしても自身で裁判長を務めて有罪にしたい、そういう事で公判を担当した、そういう考え方もあるが、こっちの方がひどいだろう。

いずれにしても自身の経歴を優先するあまり、人を罪に落とすような奴が裁判官を務める、これは日本の裁判所では主流らしい。

日本の裁判所にはおかしな考えの奴が主流で見識のある人物が公判を担当すれば被告人としてはラッキー、そういう事なのだが、こんなものまだ序の口である。

権威と見識の有無は同列視できない [所感]

私が在籍した高校に、その地域では権威と言われる古文の教員がいた。全国的にどの程度のものかは知らないが、とにかく上級生が権威と言い立てていたので、まあ、権威ではあったのだろう。
その教員、授業で「私の言うことを一言一句聞き漏らさずノートに書き取れ」、そのように生徒に言って、古文解釈を、たぶん、元になっている自身の解釈文が書かれたノートだと思うが、読み上げていた。

途中、息継ぎだか、生徒の書き取る速度に合わせるように調整するかで、間が空いた時に少しでも顔を上げようものなら、「そこ、さぼってないで、ちゃんと書き取れ。試験で一字でも違う文字を書くとなると、丸はやらないからな」そうのたまう。

天の邪鬼の私などはそう言われれば言われるほど、言われたとおりには絶対書くまい、そう思ってしまうのでまあ、古文に関しては必要以上に点数が引かれて悪かった。
訪問諸氏はどう思われるか分からないが、私はこういう教員、軽蔑していた。

主役が生徒ではなく、教員自身なのである。世の中、高校の教員レベルが考えたとおりの一言一句その通りのケースで事態が進んでいくなどという事はないし、古文だってそうである。その教員が教える範囲などたかが知れているし、それ以外の古書をどう読み解いていくのか、その教員が教えるやり方では、展望が開けない。

以前、このブログでも書いたが、日清、そして日露戦争での戦死者が実は武器によるものよりも脚気及び脚気に依存する体調による方が多かったという事実、意外と知られていない。
そういう中に、旧日本軍でも脚気対策をどうするか、重要課題として、取り組んだ話がある。

ところが、この脚気問題の解決を遅らせたのが、実は小説家としても名高い森鴎外なのである。森鴎外は陸軍軍医総監まで勤めた軍の幹部なので発言力は大きい。脚気問題に関しても自身が留学したドイツ医学の視点で捉え続けたために、大量の脚気による死者を陸軍から出している。既に異なる視点で解決を図った海軍では脚気による死者が激減しているという状況を真摯に検証せずに、放置しての犠牲者の輩出であった。

さて、私などは真っ先に馬鹿にする東大出、という多くの人が尊敬や羨望の顔で見る学校の総長の話。
現実の機能という面で見なければ、戦艦大和は旧日本軍海軍のシンボル、ロマン、そういう事になるだろうか。

しかし、武器として捉えた場合にはどうだろうか。大艦巨砲主義に毒されてしまった時代遅れの戦艦、そういうことでしかなかったのではないだろうか。

戦艦大和は日本海軍の戦艦である。ところがその日本海軍はイギリスの新鋭戦艦二隻をアジアでそれも航空機による雷撃で撃沈するという、当時、画期的戦術を披露しているのだ。さらに言えば、今でこそ、日本は航空母艦を持たない(実はいつでも建造できるように模擬鑑は作っているらしい)が、かつての日本海軍には航空母艦が今の感覚で言えばわんさかあった。

航空母艦、通称空母なる代物はどこの国でも持てる、というようなものではないので、世界広しと雖も本当に数カ国程度しか持っていなかった。

お隣中国がウクライナからくず鉄名目で嘘を言って艤装前段階の空母を手に入れ、ロシア等の技術指導で一線に配備さらに二隻目を建造していることは多くの方もご存知だと思うが、中国にして戦後にやっと持てた空母を日本は戦前、何隻も持っていたのである。

そして、航空機の雷撃によって、停泊中の戦艦ではなく作戦行動中の新鋭戦艦を撃沈するという次代の戦い方を日本海軍自身が示したのである。
ところが、その一方で大艦巨砲のシンボル的大和が竣工している。

戦艦としての建造技術等では世界的レベルとも言えるものを示したと言えるかも知れない。その意味では世界的戦艦の建造技術では権威と言ってもいいだろうと思う。
だが、しかし、第二次大戦ではその状況からすると戦艦の出る幕は、もうほとんどなくなっていた、という事だろう。

機動性に欠け、当時の日本が困っていた燃料である油の消費量も多く、常時、前線に配備できない。つまりコストパフォーマンスに欠けるものであった。巨砲も相手射程外からの砲撃など数十キロも離れると測距による修正もままならない状態の上に、軍艦同士の砲撃戦の機会も激減したのだからはっきり言って、時代を読み違えた、そういっていいと思う。

つまり大和設計の責任者であった後の東大総長は戦艦建造の権威とは言えたかも知れないが、軍事というもっと大きなものを読む見識には欠けていたのである。

何かあると、学識経験者などと、行政を始め各種機関等が著名人等を集めて会合など催したり調査等諮問したり委任するが、大きく見ると何々の権威とか言われる人物はいても見識のある人物というのは、少ない。

こういうものが、何か違うなあ、そういう結論で政策に反映されているような気がするのだが、国民が主役であることをしっかり意識した会合であれば、あまり間違わないと思う。安易だろうか。
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