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どういう形で死を迎えることになるだろうか。 [所感]

なかなか皆さんのブログ訪問もできない中、今日、湯治で朝から往復7時間半も掛けて日帰り湯に行ってきたのだが、カーナビの計算通りには行かず、途中で大変な時間が掛かり、諦めて帰ろうとした時に、ふと、思った事が…。

宗教関係者は多分、その生涯に何度か修行を積むことをしているのではないだろうか。
私が”修行”そう思ったのは、何事も予定通り行くことの方が少ない、今日も、その一つ、そう思って、これも修行のうち、そのように、自身に返ってくるもの、そう思うことにした時に、ふと、死ぬ時のことが頭を掠めた。

私はいい年をして、いわゆるストリートファイティングをしたり、けっこう血の気が多かったのだが、そのいい年をして、プロ野球で活躍していた清原並みの体格をしたいわゆる町の乱暴者、そういう人物を叩きのめしたことがあった。

いや、私から手を出したわけではない。まだ都内に住んでいたころ休日に街中に出掛けて、帰宅時間がかなり遅くなり、いわゆる最寄り駅から帰途についた時に周囲がまばらになったところに自転車で坂道を下ってきた若者が「どけどけ」そう言いながら突っ込んで来た、それを「よけろ」そう言った途端に、Uターンして殴りかかってきたのを返り討ちにしただけなのだが。

その時、かなり高額のシャツを着ていた、それをいきなり破られたこともあってスイッチが入ってしまったが、かなり怒ってしまったので、その分、ボコボコにした、その時、これ以上殴ったら死んでしまう、そう思って殴る手を止め損なって、逆に自分の拳を痛めてしまったが、そういうストリートファイトがけっこうあったので、いい年をして高度の空手技の練習も時々していた。

それが時間のない中、柔軟体操もせずにやった日があって、それで自分で自身の腎臓を破ってしまった。この時、危篤状態に二度ほど陥っており、その腎臓の痛さを未だに覚えている。

こういう痛みを抱えて死ぬことだけは勘弁して欲しい、そういう思いがある。つまり私にとっては痛みを伴っての死は人生で最大の修行に他ならないのだが、さて、それほどの修行をして私はどこに行くのだろうか、などと考えたのだが、皆さん、死ぬ時のことを考えたことがあるだろうか。

ぽっくり逝ったら幸せだというのだが、それは何も分からない現実の人間であって、本人がどうなのか分からない。
だいたい死というものは病気や怪我でもたらされることの方が多いと思うのだが、病気も怪我も痛みを伴うものではないだろうか。

そういう思いをして天国とか極楽浄土とかそういうところに行けるのだろうか、そう思った事をちょっと書いてみたのだが、考えとしては、その先まで行っている。だが、これを書いても、都市伝説と同じ類に行ってしまうので、この事についてはいずれ気が向いた時に。

中国の外交力?! [国際]

中国がGDPで世界第二位になって、まだ数年の筈だが、既に世界に覇権を唱えるべく行動している。一党独裁で国民に数々の縛りを入れている政権。国外から色々な情報を得られるというよりは、毎年百万の単位どころか千万人の単位で海外渡航するレベルに行ってしまう国民の目を塞ぐことはできなくなってしまっている国における舵取りは難しい。

そういう中で、政権に対する求心力を上げる一番は、外に敵を作ることである。中国に関しては、これが日本という事になる。そして、実際それを行ったが、下地として反日教育なるものがある。だが、多くの中国人が日本に観光に来るようになると、反日教育のメッキなどすぐに剥げてしまう、そう思うのだが、共産党指導部は気にせずに、続けていくのだろうか。

だが、求心力を上げるものに中国人が特に燃えるものがある。中国四千年の歴史と、何かあれば必ずと言っていい程登場してくる文言に代表される、自尊心をくすぐるもの、中華思想を満足させればいいのである。

何々が国際的に上位に行った、という延長線上に世界一になった、そういうものが近年増えている。色々なことに関して世界一を実現して国民の自尊心を満足させる政権を倒そうという動きはなかなか出ない。

日本との緊張関係が経済的に得策でない、そういう事から日本との緊張関係を和らげる方向に中国が行っているなどと思うのは甘い考えであり、日本がどうであれ、中国が覇権を世界に唱える、この目的は共産党政権であっても変えない。

今、マスコミで取り上げられている中国提唱のアジアインフラ投資銀行アメリカ、日本主導のアジア開発銀行に対しての中国の対抗策として持ち出されたものという事だが、現在、大きな経済成長の見込まれる地域はアジア地域であり、それに必要なインフラに対しての投資は莫大な利益を生む。

ここで主導して、アジア各国に大きな影響力を確保できれば、世界に覇権を唱えることができる、つまりアメリカにとって代われる、そういう思惑の元、この銀行設立に対して出資を募ったわけだが、米英と一括りにされることの多い国際情勢では一枚岩のように行動してきたイギリスがアメリカの要望に反して参加を決めてしまった。

つまり同盟関係よりも今後のリターン重視に舵取りを切り替えたのだ。
これはアメリカの外交の敗北を意味する。

いや、日本だって、良い事はない。これはアメリカの問題、そのように見たかどうかはわからないが、アメリカの要請を断ってなどという前に日本もアメリカ以上の外交を展開しなければならなかったのだ。

今後、同様の事が増えるだろう。
日本のようなレベルの低い官僚や政治家ではまともな外交はできない。

たいした外交力も持たずに靖国参拝とか自分の都合だけで行動する首相など担いでいるうちに、日本を取り巻く環境はいっそう厳しくなっていく、そういう事を示唆する出来事であり、アメリカも中東がいっそう緊張する羽目に陥った現在、身動きできなくなる時機が来るかも知れない。

役人が役人として全く機能していない日本と、腐敗しきっている中国。どのように動いていくだろうか。

猫のマイナス面を書いても仕方ないのだが [日記]

安倍政治の危うさや日本という国の危機に繋がる事をもっと書きたいと思うのだが、現実の生活はそんなに甘い物ではなく、あまり体調が回復していない中、マイカーの洗車の毎日でけっこう、大変である。

毎日洗車をすれば水道代が掛かるし、第一水の無駄である。そう思うのだが、猫のマーキングはすぐに洗い落とさなければ、マーキングした猫とは別の猫がその上に引っ掛けるという事で、すぐに洗い落とさなければならない。

バンパー程度はいい方で、今朝も買い物に行こうと窓ガラスチェックしたらフロントガラスの全面にしぶきが飛んでこびりついている。昨日も、そして一昨日など2時間以上掛けてきれいにしても意味がないのだが、前述のように猫のマーキングはすぐに洗い落とす必要があるので、とりあえず、窓ガラスだけは洗って、出かけたのだが…。

買い物からの帰宅後、チェックしてみるとボンネットに相当量の尿が掛かっており、日射しの増した中、花粉症だかで鼻水を垂らしながらの、洗車である。

一度きれいに水気を拭き取ったのだが、けっこう、こびりついており、たかが猫のマーキングと侮れない。再度洗い直しをしたが、簡単に1時間経ってしまった。

猫にしてみれば自分たちのテリトリーという事なのだろうか。しかし、我が家は既に何十年と経つボロ屋になっており、最近、車に悪さをする猫達よりは先住である。

今まで、数多くの野良が我が家をテリトリーとしていたと思うが、車の周囲に糞をしていた、我が家のお転婆の父親を除けば、車に乗ってマーキングをしたり泥まみれにしたりする猫はいなかった。

どうも、最近我が家の周囲をうろつく野良は私を敵として、テリトリーを強調する行為が車に乗ってのマーキングのようなのだが、丁寧に観察すると塗装保護のために特殊コーティングまでした車の表面が傷だらけである。

猫を捕まえて賠償請求したいところだが、金を払ってくれるだろうか。いや金を払えるくらいならホームレスなどしていない、そう言うか、あるいはお前こそ所場代を払えと逆に凄まれるか。

にしても洗車の毎日は、意外と肉体的にも疲れるものである。

危うさ満載、安倍政治 [政治]

以前からアベノミクスなる経済政策について決して国を繁栄させるものではなく、むしろ国を滅ぼす政策であること、述べていたが、それにしても安倍政治の諸々について、どうして野党はもっと、異を唱えないのか。
つまり国会に議席を得ている既成野党に国をいい方向に舵取りをしていく能力がない、その事を示しているのではないだろうか。

だから安倍政治で仕方がない、そうはならない。野党が駄目といっても、次善の策、次善、そう考えて、安倍政治にストップを掛けるか、あるいは注文をつけて最悪を回避しなければならない。

安倍晋三曰く
1.雇用が増えている
2.株価が上がっている
3.GDPが上がっている
等民主党政権下とそれ以前の自民党政治でのデフレ脱却が図られて、成長の軌道に乗り始めている、らしい。

だが、株価の上昇には類を見ない金融緩和で、巷に金を溢れさせれば、行く先のない金が株に行くことは目に見えている。

つまり経済活動で実際に投資の必要な産業が出現して、投資を呼び込む、そういう金ではなく、どれが売り抜けに良さそうな株だろうか、そういう投機の金でしかない、その金でのマネーゲームが一見、経済が上向いて株価が上がっているように見えるだけなのだが、果たして、いつまで続けられるだろうか。

これには日銀が協力していたのだが、今、我々の汗水垂らして働いた老後の生活のための年金、これが危うくされている。

元々、第二次大戦以前の国債や年金積み立てなど、全て紙きれや霧消してしまっているのだが、第二次大戦後の年金制度によって私の両親などは戦後ずっと積み立てた自分たちの年金を受領する形できており、決して子供の世代の私達が働いたり、積み立てている年金で彼らを支えているわけではない。

そして私も予定される年金受給額はひじょうに小さいがそれだって、自分で働いて積み立ててきた年金であり、次世代の人達によって支えてもらっているわけでも何でもない。

ところが自民党が主導してきた政治や官僚達は、このままでは年金制度が立ち行かなくなる、そうほざいて消費税導入や増税をしてきた。だが、何と、それらの金が法人税減税という、特に儲かっている大企業に対して法人税が高いと企業が海外に逃げてしまう、なる文言の元、企業減税にすり替わってしまっている。

では、国民の年金制度や医療等の社会保障に向かうはずの消費税はどうなってしまっているのだろうか?
全く変わっていない。全く変わっていないという意味は、増税前と何ら変わっていないので、さらに消費増税をして、その上がりを原資にしなければならない、そういう事だ。

だが、増税する度に目的外に流用されてしまえば、いくら増税したって意味はない。これは消費税導入の時から、この構造が全く変わっていない、という事なのだが、日本には何故この程度の話で騙される人間が多いのか。騙している連中は税金の上で胡座をかいているというのに。

そして株価を支えるもう一つの手が我々の年金を運用する年金積立金管理運用独立行政法人(以下GPIFと呼称)が、その運用先としてリスクの高い、株式への投資制限(30%強)をしていた、その制限を50%にまで引き上げている。

GPIFは世界最大の投資機関と呼ばれるほどの金を原資にしており、たかが20%弱と言うなかれ、とんでもない額なのだ。

皆さん、グリーンピアを覚えている方も多いだろうと思う。官僚が定年後の天下り先として作った組織で国民の金を野放図に垂れ流した、その典型の建物であったが、四百数十億の金がたった数億円になってしまったという物件もあったと思うが二千億円弱の年金の原資が譲渡された時には五十億にも満たなかった、そういう事件だ。

これをやった官僚の誰一人責任を問われていないし刑務所にも入っていない。国民の財産を野放図に浪費して、その一方で、それをやった組織の中で、天下った元官僚達は自分たちの懐にせっせと金を入れていたのだ。

こういう事をやった組織と同じではないが、名前や形を変えたり、とにかく官僚主導で来た組織が今また国民の財産を食いものにする形で安倍政治に協力するという、これはいったい何だろうかと思う。

そして安倍晋三は、もう一方で、外遊しては相手国にいい顔をして金をばらまいている。

以前のブログで我が母の言葉を紹介したと思うが、外遊だって相当な金が消費される。本当に誰の金だと思っているのかねえ、という母の言葉、的を射ていると思う。さらにこれら外遊には、おまけ付きなのだから大変なものだ。

いくらの無償提供とか、そんな言葉で積もり積もって一兆円を軽く超す。どこにそんな金があるのだろうか。これはもう、消費税を10%にするためにどんどん使え、安倍晋三自らそう政府内で発言して自ら率先している、そういう事ではないだろうか。

企業減税や株価の上昇、そして一般国民向けに賃金アップを経団連に要請している、という一連の動きは格差をより拡大させる、そういう事でしかない。
これが頓挫しても大手企業の経営者やそこで働くサラリーマンは金を手にすることができる。

だが、一方、中小企業の経営者や労働者達は利益を上げることもなく、ましてや賃金など上がろう筈もないままに、いつの間にか、景気低迷の名の下、新たな締め付けの不景気を凌がざるを得ないのである。

大企業の労働者は全労働者の約三割。だが、その中には非正規雇用が蔓延し始めて、全労働者の1.5割がそこそこアベノミクスによる偏重経済政策の恩恵を受ければいい方ではないだろうか。

郵貯、銀行などの定期金利など軒並み下落する政策、つまり産業の需要がないのに巷に金が溢れれば、株にしか金が向かわない。そういう誘導政策で株価を上げたって、砂上の楼閣でしかなく、結局、ばば抜きで、いつ誰がババを引くか、こういう事を国民や国民の金を運用する機関投資家に強いてよいのだろうか。

もちろん、嘘でも大勢が嘘をつけば真実となってしまう愚者社会において、これら虚構が数年も続けば実のある構造、そう見えてしまうのだが、破綻は必ず、どこかでやってくる。政治が、こういう事をしていいのか、そう思うのだが、政治家が劣化している現在、国民が原則をもう一度学び治さなければならないのではないだろうか。

弱り目に祟り目 [日記]

まあ、書くほどの事もないし読むほどの事もない私の愚痴なので、さらりと読み流して欲しい。

昨年、消費増税があるという、その期限間際で車を購入したのだが、あまり車の手入れに時間を掛けられないかと、ディーラー推奨のコーティングをしてもらった、そのコーティングのコンディション具合を確認するために法定点検の時に洗車して持ってきてくれと案内状に書いてあった。

寒い中、先日洗車もしていたので、きれいだったのだが、車の持ち込み二日前に道路を挟んだアパートが、風の強い日に外壁をジェット洗浄していて、ジェット洗浄で吹き飛ばされた水分と埃らしきものが風に乗って風下の我が家の方にも飛んできていた。

翌日、車を確認すると相当に砂埃らしきものがたかっている。さらに前部バンパーには黄色い液体飛沫が相当量掛かっている。

飛来してきた洗浄飛沫の影響を比較的受けていなかった車の屋根後部には、見てすぐに分かる二条の筋が。

結局、改めて洗車せざるを得ない状況になったのだが、先日来の体調不良。寒風吹きすさぶ中、作業しても片っ端から砂埃が付着する可能性があるため、作業を止めて、翌日の点検日の午前中に賭けることにした。

天気予報では強風が収まり気温も上がるとのことだったが、案に相違して、前日と変わらぬ強風と寒さ。

その中を体調の悪さを我慢して2時間掛けて洗車。

さて、ディーラーに車を持っていって、車の屋根部分に軽くではあるが20cmの長さの擦った痕が2本あり、それぞれに細かく見れば4つの筋状の痕がある、その事を伝えた。

わざわざ他人の家の駐車場に入り込んで車の屋根に同じような筋をつける人間はいないだろうから、たぶん、猫ではないだろうか、だが、今までこんな傷を猫がつけた事などないので、傷の状況等確認して簡単に保守液で済むようなら自分で対応してみる、そういう内容で。

ディーラーの担当者の話ではやはり猫だろうとのこと。

先日来、野良が洗車をする度にマーキングをする、洗い流す、またマーキング、それを繰り返しているのだが、車のボンネットに乗ってさえ、車の表面に跡が残るほどの筋を付ける事などなかったのだが、果たして本当に猫なのだろうか、そういう疑問がある。

確かに肉球のような柔らかいもので擦った痕。それも片側ずつ4筋というものなので猫といえば猫なのだが、コーティングの強度と猫の体重を考えれば、それほどの痕が付く事が信じられないのだが、昔気質でものを大事にしている事など野良猫にはわからないか。

いやいや人間様だって私がものを大事にしている事など関係なく、平気で車を人にぶつけたと因縁をつけて犯罪者に仕立てた奴らもいる事だし、ましてや野良猫ではしょうがないか。

愚痴話を書いていたらまた喉が痛くなってきた。時間がもったいない。寝なければ。

中韓の主張にお墨付きを与えるか否かは日本の総括次第では? [政治]

少し前に父の勤務先の人物の戦争時代の話、巷に出てはいないが日本人の従軍看護婦達が戦争で負けて日本兵の武装解除後に戦車を取り巻く形で立たされた後に中国兵に銃殺されたという話を紹介したが、満州、朝鮮でも悲惨な話は尽きない。

私がいわゆる物心を覚えて子供時代を過ごした地ではなく、父親の勤務の都合で初めて住んだ地でのこと。情報がないものだから、うっかり踏み込んではいけないと言われた地に踏み込んで、十数人という集団に取り囲まれて袋だたきに遭った事があった。

よくよく聞けば、私の住んでいたところから川を隔てて朝鮮人部落がいくつかあり、そこに迷い込むとただで済まない、そういう事だったらしいが、もう一つ、朝鮮人は徒党を組んでやってくるので、一人二人でそういうところに行ってはいけない、そういう事だったらしい。

多少腕に覚えもあったので、あまり、そういう事の情報もないままに友人と二人で隣町に迷い込んだ、これがまずかったらしいが、その時、初めて朝鮮人というものを意識した。
通常の子供同士の喧嘩なら不要な鎖や煉瓦のようなものまで持っていたので、子供心にいやーな感じがしたものである。

そして、そういう嫌な体験をした後に、敗戦後、朝鮮にいた日本人や日本に帰ろうと日本に一番近い釜山に行こうと朝鮮半島を下る日本人が悲惨な目に遭った、そういう話を色々聞いたのだが、もちろん、朝鮮人皆がそうであったと言う事ではない。

今の韓国ではまともな事を言えない、そういう風潮から日本統治の時代は良かった、そういう朝鮮人も朝鮮半島に入るので彼らまでもが日本人に対しておかしな事をしたわけではない。母の話を聞いても親戚が朝鮮半島で貿易の仕事をしていたから学校を休んで京城とか平壌に一ヶ月近く遊びに行っていたとか、そういう事が出てくる。

その中には朝鮮人敵視の話など出てこないし、日本人が怨まれたり、おかしな事をしてきたなどと言うものもなく、韓国が今、感情的になっている話に辿り着かないのだ。むしろ、前述のように敗戦で日本人が帰国の足がない時に悲惨な目に遭った話ばかりが出てくるのだが、こういう事もちゃんと総括すればいい。

自分たちに都合が悪い、そういう連中が政治を牛耳って第二次大戦や、そこに至る事への総括をしてこないから、おかしな話を中韓両国が国際社会に訴える度に、そうだったのか、そう思ってしまう人物が出てきてしまうリスクが出てくるのだ。

嫌な事を嫌だと思わずに、ちゃんとやれば、その後に新たな展望が開けてくると思うのだが、今のおかしな状態を今後も日本は続けていくつもりだろうか。

日本には戦争犯罪人の官僚がわんさかいる。何故、日本で官僚が強いかと言えば、自分たちの旧悪をほじくられないようにしたい、そういう事から官僚支配体制を強化してきた、そう穿った見方もあながち的を外してはいない、そう思われてしまっていいのだろうか、国賊並みの官僚諸君!

法と心理学の専門家を標榜する裁判所がこれでいいのか? [司法]

日によって暖かくなったり寒くなったりはまだいい方で、一日の中での気温差はあまり体調が良くない人間にとって、さらに言えば、すきま風の入り込むボロ屋に住む人間にとっては、かなり堪える。昨夜も夜中、あまりの寒さに目が覚めたが、肩周りが布団から出ていて、猫ごと掛け布団を引き上げた(我が家のお転婆が掛け布団の上にでんと寝ている)が、時既に遅しで、くしゃみが止まらず、よく寝られなかった。

風邪は万病の元というように、体調不良から色々な病気を引き起こすので皆さんもご注意あれ。

さて、技術の世界で行われる事の誤解や間違った手法等について先日来述べているが、久し振りに私が体験した裁判から、この世界が如何に常識から乖離しているか、改めて述べてみたい。

以前にも述べているが、弁護人からの私の保釈申請を担当した裁判官達が、その被疑者であった私の公判を担当したという現実をご存知だろうか。
私の依頼を受けた控訴審である高裁での弁護人達は、一審でのこの話を聞いて、東京では、こんな事はない、と言う。

そんなもの常識である。
私も保釈申請を担当した地裁支部裁判官たちの悪意を感じていたので一審でおかしな弁護士を解任した時に、新たな弁護士達にはその事を言い、裁判官忌避の申し立てをするように言ったが、弁護人の同意を得られず、公判は裁判長であった栗田健一の悪意丸出しの指揮の下進んでしまった。

ここでの判断はやはり私の判断が正しかったはずだ。ただ、裁判のシステム上、実際にこの栗田健一以下の裁判官忌避申し立てができるのか否か私は知らない。

弁護人達が、そういう事はできない、そう言った意図は、その後の彼らの言動から察するに、私の言う事がシステム上できない、そういう事ではなく、私の言う、裁判官忌避という重大事を進めるほど、公判を担当する裁判官達が悪意に満ちているあるいは、それほど低俗である、そのようには思わなかった、という事だと思う(実際には弁護人達もその後の公判が進むにつれて、栗田健一が如何におかしな人物か何度も打合せの席で漏らしてはいたが)。

だから、私が色々技術的に私に責がない、その事の証明する資料など、準備するもの、さらに揃えようとしても、うーさんの車の速度が遅かった事は、十分に分かっているから、それで大丈夫、そのように言ったのだが、結果は、「人間として屑、最低」そのように弁護人達は栗田健一を評する判決が出た。

弁護人達はまさか、それほど非常識な判決を栗田健一以下の裁判官達が出すとは思わなかった、つまり人間として信ずる気持ちを裏切られた、そういう事だったのだが、しかし、一般的にたかが交通事故(警官を含めて、皆そう言った事故だったのだが)で保釈申請を却下し続けた、そのこと自体で裁判官達の非常識さがわかろうというものである。

その目を眩ませるほど、裁判官という職責が世間の信用を得ているという事だろうと思う。
しかし、執拗に保釈申請を却下し続けた裁判官達がその罪の有無を問う、公判では第三者として客観的事実に基づいて判決を下すなどあろう筈がない事は素人でもというよりは、素人という一般人の方が分かるのではないだろうか。

もっとも、控訴審を担当した弁護士達は、私と同じ考えで、だから東京では同じ裁判官達が公判を担当する事などあり得ない、そう言ったのである。こんなもの、人権や法の下の平等とか法が公正公平に適用される事を保証している憲法違反であり、それを裁判所がやっているのだから、とんでもない話なのだ。

さて、もう一つ。
控訴審で高裁の法廷に入って違和感を感じた。
担当検察官がまるで自分の居間にいるような感じで、法廷の検察官席に馴染んでいたのだ。

例外がないとは言わない。検察官が数名出席する公判もあるのだろう。だが、少なくとも何々号法廷という形で担当裁判官達が決まった、その法廷には検察官がセットのように担当者が決まっている。

一説には、裁判官と検察官が癒着のようになる場合もあるが、裁判官達に嫌われる検察官がいないわけでもないので功罪半ば、そういう声もある。だが、癒着紛いの法廷に当たった被疑者は堪らない。

こんなもの、李下に冠を正さず、そういう言葉があるように、そして私も疑われる事を極力無くす事を心掛けてきた、その一方で、そういう被疑者の神経を逆撫でするような裁判の実態が存在するのだ。

弁護人としては特定の法廷を担当しているなどという事などできないのと同様、検察官だって、何々号法廷付きのような癒着の存在を疑われるような事をやるべきでなく、それは裁判所の方から申し入れをするべきである。

自分たちは、公正公平性を疑われるような実態を放置していながら、それこそ偉そうに中身のない判決など出している裁判所など信用などできるものではない。

体調不良?! [日記]

体調が悪いのでブログも休もう休もう、そう思いながら続けていましたが、この一週間、強烈に喉が痛く、扁桃腺も腫れてきたので、少し休養をします、そう言いながらも次のブログを書きかけていましたが。

実はあまり気にしていなかった鼻血がなかなか止まりません。そう言えば、昔、鼻血ブーなる品のない漫画が一世を風靡したけど、私は鼻血ブーになるような刺激的なものにもありついていないし、などと考えながらもう10日くらいになるでしょうか、花粉症で鼻をかみすぎたのかと、鼻をかまずに鼻水をティッシュで拭くような感じにこの一週間ほどしていましたが、出血が薄らぎはするものの、止まりません。

ここに来てとうとう悪運尽きた、いやいや悪運は尽きた方がいい、私にはいい運が来て欲しいなどと訳のわからない事を考えながら、朝晩の寒さに対応しつつ、できるだけ負荷を掛けない生活を送るようにしていましたが、このブログをもって、休む方をメインにブログはちょぼちょぼにしようと思っているので、皆さんへの訪問もこれからはまちまちになりそうです。

皆さんもこの寒暖の激しい日々を元気でお過ごしください。

たぶん、明日あるいは明後日にはまたブログをアップすると思いますが…。

設計審査 [所感]

せっかく設計思想の話までしたのでついでに設計審査の話もしておきたい。

設計審査、いわゆるデザインレビューであるが、世の中にこの関連で出回っている書籍の全てを見たわけではないので、もし、私の話と共通する書籍を見たという方がいられたら、御容赦願いたい。

というのも、世間で言われたり書かれている、あるいはそういう書籍に沿ってこのデザインレビューをやっている会社があるとしたら、とんでもない、そういう事だからである。

通常の、つまり私が批判するところの設計審査は、開発した技術を製品に具現化する設計、これについて開発、営業、、調達、設計、生産、品質等の部門が審査を行うというものであり、これを主導するのが、設計部門の責任者という事になっている。

私が在籍していた企業内でこれをやっていたか、わからないところが多いが、少なくとも私のいた部門ではやっていなかった。これは設計という事に関してまだまだ企業の熟成度が足りなかった、そういうところだと思う。

しかし、世の中に日本式の品質管理がもてはやされるようになり、設計という事にもメスが入るようになってから、設計審査も多くの企業で導入されるようになり、またそういう関連の書籍が出回り始めた。そしてこれらの書物を読んだり、関連の講習会に参加した人物達が自社に戻って設計審査を社内でやり始めたと思う。

さて、設計という事に関して、設計者に対して、その設計が開発コンセプトや設計思想にのっとっているか、その審査や、照査をその上司が行い、さらにそれを設計部門を代表して外部に出していい、そう承認するのが設計部門の責任者である。

しかし、ここに落とし穴がある。設計というのは製品として要求される要素を具現化する手法の一つであって、品質上、企業が保証する期間や機能が問題ないかとか、実際に製造される時にちゃんと組み立てられるのか、あるいは製造上での手直し、もっと言えば顧客に渡ってからの修理という時にも対応できるようになっているか、これをレビューするのが設計審査なのだが、それを設計部門の責任者が主導したらおかしくないだろうか。

私が訴追された刑事裁判では最後まで保釈を認めなかった地裁支部長以下保釈申請に絡んだ裁判官が裁判官席に並んだ。誰が考えたって、私を無罪にすれば自分たちの失態が表に出る。最初から有罪ありきだ。現に公判の最初から彼らはそういう事しかしなかった。

設計審査についても同様。設計部門の責任者としては面倒くさい話にならない内容にしたい。あるいはそういう意図がなかったとしても設計に関与した当事者達には気づかない事が多い。つまりほぼノーチェックで設計審査を通る、そういう事になる。

私が在籍した企業でも「ああ、こいつら、本とか講習会で学んだ事、お復習いもせずにそのままやっている」そう感じる事をやっていた。おかしい、そういう指摘をした私など、お呼びでなくなってしまったが、案の定、そこが出した製品は次から次に問題が出たり、販売不振に陥ったり。

そう、設計審査は技術に経験豊富な品質部門の人間が主導して行わなければならないものなのだ。企業内の技術系で働く諸君、自社で行われている設計審査、本当に意味のあるやり方、内容になっているか、見て欲しい。

さて、ついでだから原発にも言及しておくが、原発でも有効な設計審査は行われていない。
福島原発でも津波についてシミュレーションされている。
そのシミュレーションについて、あるいはそのシミュレーションの評価等、正しく過程を踏んでの審査は行われていない。

死んだ人物の悪口を言うのは日本ではタブーらしいが、私は言ってしまう。
亡くなった所長の吉田氏は、津波の想定高さについてこんなもの現実的ではない、そういう断定の元、せっかく行ったシミュレーションを無にしてしまった。

結局、設計部門の長が行うと、面倒くさいとか自分の想定を超えると、その指摘を無にして取り返しの付かない事にしてしまう。これは技術部門の愚である。

結局、いい考え方や、いい道具が出てきてもそれを取り扱う人間が劣化してしまっている(私の父親の世代、つまり日本の高度成長を支えた技術者達は、本当に愚鈍なまでに真理を追究する道を歩んだのだと思う)ためにそれが生きない、これが日本の技術の現実なのだが、そういう現実を考えれば考えるほど日本で原発を稼動させるなど恐ろしい事なのだと思う。

この事、理系人間と自認している御仁にもそうでないからと原発の事はわからないと逃げている御仁にも、理解して欲しい、そう思う。

設計思想 [所感]

以前、原発の設計思想という事で書いたので、ついでのことに、設計思想というものから、これを展開した話をしてみたい。

世の中に製品を売り出すのに企業は、その製品について、どのようなものを出すのか、いわゆる商品コンセプトを明確にする。

これはその商品の社会的位置づけであったり、どういう層を対象に開発あるいは売り出していくのか、そしてそれに伴う様々なものを決めていくのである。

これを政治に置き換えてみる。

私の裁判を担当した、あるいは依頼に行った弁護士達は、私が理系の人間として一家言ある人間だと知るまでは、その理系領域でさえ自分たちの方が私よりも造詣が深いかの如き口を利き、私が物理的理論を持ち出した解説等、単に被告人になるような社会的底辺生活者としてみる対象ではない、そのように見方を訂正した後は逆に、今度は自分たちが文系人間なので、と言い訳がましくする人物が多かった。

だが、実は理系の各種の考え方には一見、理系の方程式や計算式とは無縁のような経営とか社会とか、そういう事に適用できる話も多いのだ。

そういう中に設計思想もある。

何を意図するのか。
例えば、ほとんど一般の人は使わないような機能は省略して、使い勝手に特化した安心・安全・シンプルを売り物にするとか、そういうマイナーなものでもその製品としては設計思想となるし、これまでとは異次元の天変地異が起こる事を想定しての、火災や津波を含めた水害対応の住宅を造るとか、そういう根本のところから製品の設計を考える、というものもある。

消費者あるいは購入者の側、つまり顧客としてみた場合、提供側の何を重視するか、その時に提供品の設計思想というものを見ていかなければならないと思う。

昔、オーディオ製品を購入しようとした時に、いわゆる汎用品であったが、テクニックスという松下のブランドのスピーカーが保護のカバーを外すと木質を削りっぱなし、という事があった。他のメーカーのスピーカーは、見えないところもきれいにしていたが、松下は機能に問題がないとして見えないところまできれいにせずに、そういうところでコストを削減していた。

金があれば、そういうところまで拘った高価な製品を買うか、あるいは分相応としてそういうテクニックスの製品を買うか、そういう事だったのだが。

さて、政治にこういう事を置き換えてみよう。
我々はどういう国家にしたいのか。国民それぞれに考えている御仁もいれば、そうでなく、問題意識なく日々を送っているという御仁もいるだろう。

選挙でマニフェストなるものを出してくる政党もあるが、各論だけで大きなものを出していないところもある。

国家観として本来、こういう国家を目指すとか、国民にこういうものを提供したい等国民がどこに国家として向かうのか、向かっているのか、そういう事を知り、安全・安心を享受できる、そういうもの、つまり政党が自分たちが描く国家像、そしてそれに向かうアプローチを示すもの、これが政党が国民に示す設計思想なのではないか、そう思う。

しかし、この国の政治は一部の人間にしか享受できない政策を、取り繕った言葉で誤魔化して進めているのだが、皆さんお人好しすぎないだろうか。

原発など製品としては、設計思想が破綻した製品である。こういうものを国民に押しつけていて、さらに破綻した例を見てさえも、これを使う、それが使用上、強毒物質を生成し続ける、それさえわかっていても、稼動させるなど政治家としては下の下だ。

理系人間であれば、そして設計思想というものを理解している人間であれば、さらには国民主権を理解している国民の一部であれば、こういう製品を世の中に出す、あるいは世の中で使うなど考えられない話なのだが、考えて見ると原発には多くの理系人間が関わっている。

物事の理の分からない権化である政治家であるならまだしも理系の人間としても優秀であったはずの科学者達が何故、原発の存在に異を唱えないのか。ここには本質論以前の人間としてのさもしい欲が優先している事がよく分かる。

無毒化ができない、制御もできない、そのような人体どころか生物や環境に悪影響を与える物質の濃度を高め環境に拡散させる可能性まで高める、こういうものを抑え込む技術の開発ならまだしも、悪い方にしか行かないものを世の中に出す人達には技術者としてまず、考えないといけないという、設計思想の概念が抜けているのだが、こういう人達は理系人間でも下の下である。
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