So-net無料ブログ作成
検索選択

人質司法 [司法]

フィリピンで買春した少女の裸を撮影したとして児童買春・ポルノ禁止法違反容疑で逮捕されていた横浜市の元中学校校長の拘留要求を横浜地裁が却下、釈放されたというニュース新聞に掲載された。

まあ妥当な判断だと思う。

いや、皆さんそれぞれにこの人物についての考え・感想というものがあるかも知れない。しかし、それと事実関係を元にした法律に則った刑罰は別のものであり、また社会としてどう考えるか、あるいは行動するかも別である。

さて、人質司法という言葉がある。
皆さんの中には耳にされた方もいると思う。

今回の元中学校校長については証拠となる写真は押収されており、逃亡の恐れもないとして、拘留の必要がない、そう判断されての保釈である。

そもそも、罪の確定していない人物に対して拘束をする、というのは法律違反なのだ。いや、上記、保釈が可能だとした証拠隠滅の恐れがないとか、逃亡の恐れがないとか、で述べたようなものは逆の事、つまり、その人物が犯人であった場合に、そういう新たな犯罪を犯す可能性がある場合にしか拘束してはいけない、そういう事であるはずなのだが、いつの間にか運用が逆になってしまっている。

もっと、そもそも論で言えば、掛かる判断を裁判所が下す、そういうものをわざわざ拘留請求する検察とは一体何であろうか、という事だ。
検察自体が戦前の体質から変わっていない。だから威嚇、恫喝で強引に犯罪者を作ったり犯罪者に仕立てることが、蔓延している。

そもそも検察が犯罪者としている人物は、一般国民であり、その扱いには慎重な態度が求められるのに、強引な取り調べとも言えない取り調べをしたり罠を嵌めたり、思考の原点から下の下なのだ。

何故、冤罪というものが判明している一方で、おかしな勾留請求やら出てくるのか不思議でしょうがない。一度、自分たちがおかしな事をやっていることの罪を被って刑務所に入ってみるといい。

検察はそれだけのことをやっている。
被疑者を勾留して閉じ込めている間に、外堀を埋めるのである。事実関係を丹念に抑える事ならいいが、検察にそれだけのおつむなどない。だから被疑者の身内を騙して落とすのである。

私のケースは高齢が故に耳も遠く、細かい字も見えない母に調書を作成するとは言わずに、話を聞きたい、そう言って呼び出し、本人が言ってもいない内容を書いて、調書とは知らない母親にサインさせている。

こういう事を警察に指示して作成するのだが、こういうもののどこが捜査とか事実究明と言えるだろうか。

さて、一方、裁判所はどうか、と言うとこれまた、おかしな人物のオンパレードである。
今回の判断は当たり前、という事なのだが、その当たり前でない事例が山のようにある。山のようにあるからこれを評して人質司法と言うのだが、被疑者を人質にとって検察の思うように訴追を持っていく、つまり被告人にしていく、というのである。

前述のようによっぽどの理由がなければ勾留してはいけないものを安易に判断して拘留するものだから、それが冤罪に繋がる。ところが裁判官自身は勾留延長について検察の意見を聞くと言っているのだが、まともに判断できる能力もない裁判官が多いものだから、不当な勾留が多発する。

ところが裁判官自身は自分たちは正しい判断を下している、そう思っている。しかし、彼らが全くどうしょうもない人種であることは彼らのやっている事自体がそれを示しているのだが、(こいつ、全く反省の色がないから、懲らしめてやれ)そういう感情の元、保釈を認めないのだ。

しかし、裁判制度では判決をもって初めて被告人となった人物が有罪となるのであって、それまでは犯罪者ではない。つまり判決が下るまでは懲罰意識が芽生えて、それに基づいた行動を裁判官自身が起こす事自体犯罪なのだ。

自分たちが勘違いして不当な勾留をしたり有罪にして刑務所に入れた事案について、それが発覚しても謝罪すらしないし、刑務所に入りもしない。こんな不当な事があっていいはずはないのだが、そういう事に頬被りしている裁判所や裁判官などなどとうてい信用などできないのだが、そういう事改めて、信頼できる裁判所にしていかないのだろうか、そう思う。

件の人物についても先走りして、ああだこうだと騒がずに、事実関係がはっきりして、それから適正な刑罰が適用されればいい、そういうことだと思う。裁判制度の適正化のためには、マスコミ等体制側に操作された情報に乗って強権の警察国家作りに利用されない方がいい。

水泳元日本代表富田選手の裁判のこと [司法]

裁判の事案は、第三者のあずかり知らないことが多い。
一般の人が目にし、耳にする情報はマスコミを通じての情報だが、その発信元はだいたい警察、検察である。

ここに情報操作という裁判、特に刑事裁判での被告人に不利な状況が自然と醸成されるのだが、さらに今回の富田選手の場合、日本よりもさらに人権とか民主主義という観点では落ちる韓国という国状が絡むだろう。

国によっては馬鹿じゃなかろか、そういう国もある。私がある国に入国する時に、持ち込んではいけないものがないか、申告しろ、そう言われて、そんなものはない、そう言ったのだが、手荷物を開けさせられた事があった。

当日、日本国内から出発するにあたり、空港に向かう途中で読もうと週刊誌を購入したのだが、朝早かったせいか、眠気を催し、結局、購入したものの、全く読みもせずに鞄に入れたままになっていたのだが、その週刊誌を発見した税関の人物が、「これは何だ」そう言うので、読もうと思って日本国内で購入したものだ、そう言ったところ、「こっちに来い」そう言われてコントロールルームなる部屋に連れて行かれたことがあった。

今は週刊誌も読みもしないので内容がどうなのか知らないが、当時はたいていの週刊誌には女性のヌードや水着写真などが載っていて、別に特別なものでもない、そういう感覚があったのだが、その週刊誌にも女性の水着の写真が載っていた。私から見て特別に欲情をそそるようなものでもないものを、税関職員はああだ、こうだと言いまくったのだが、たぶん、規制が厳しい国であっても、検挙すべきほどのものではなかったと思う。

結論は、単に所有の破棄、という事になったが、官憲はどこでも、自分たちが動いたものは例え間違っても、間違いは認めずに、自分たちを正当化する行動しか取らない。

まあ、後進国の話だけしてもしょうがないのだが、裁判というもの、自分が体験した事を正直に話しても、通らない。まして警察、検察が出してくるもの、それらだけ見ると自分が犯人だったり、自分に責任があるかのようになってしまうのだから、本当に恐ろしい。

私の場合、記憶や理論的な点では人後に落ちない、そういう自信があるので、主張が揺らぐことはなかったが、しかし、これはこれで裁判官達からすると不遜、罪を着せてしまえ、そういう事になるらしい。

裁判というもの考えると本当に馬鹿馬鹿しいものだが、裁判という制度自体はそんなに悪くはないのだ。しかし、これに人間が絡むからややこしい。そして近年の人間の劣化で、裁判官としてその職務にふさわしい人間などほとんどいないという現実を無視して裁判制度が維持されているから不当な裁判が山の如く存在するのだが、果たして富田選手のケース、裁判官がどのレベルか、富田選手と言うよりも裁判官を見る方が、事実が分かるかも知れない。

表に出てくるものは一般の人から見て不可解、それは訴追した側だけでなく、無実を訴えるなら、この点はどうなんだ、そういうものをわざと見せるテクニックもある。

つまり、被告人の方にはどうにもできないものについて警察や検察は加工できる余地がある。この事を理解し、その点を明確にする方向でいかなければ被告人としては例え無実であってもなかなか裁判には勝てない。

全ての事象についてどれだけの戦術を立てられるか、弁護士の能力にも依存する事だが、なかなか技術的なことに精通する弁護士は少ない。その辺が勝負所という事だろうか。

富田選手のケースでは監視カメラの録画映像があるとされているが、加工されていないオリジナル映像である確認とその映像を根拠にした主張が富田選手の主張の裏付けになるかどうか。私の経験でも警官が嘘を言うと、なかなかそれをひっくり返す証拠を探すのが難しい(丹念に探すとたいていのケースであるし、私のケースでも存在した)ので短期結審は被告人側には不利な結論という事になる。

無実を主張するからには無実であって欲しい。

国会議員定数削減というものについて [政治]

決して有能とは思えなかった当時の民主党野田首相と自民党総裁であった安倍晋三の議員定数に関するやりとり。
いわゆる身を切る改革というもの、止まっていたものが動き出しそうだ。

だが、果たして喜ぶべき事なのだろうか。

国会議員は国民全員が顔を合わせて議題に関して議論し、結論を出すという事が物理的に不可能である事から、国民を代表して国民の大多数の意向を反映する意見を国政に活かしたりあるいは国政のチェックを国民に代わって行うのではないだろうか。

そもそも国会議員に求められる、あるいは求められている仕事量に対して議員数が充足しているか否か、何をもって痛みなどと言うのだろうか。

議員定数削減はひょっとしたら話し合うべき、あるいは決すべき議案さえ事案として提議されなかったりする可能性のある国民にとってはマイナスに作用するかも知れない大事な話だと思う。

簡単に議員定数削減イコール議員歳費総額の削減と判断するべきものではない。国民に良かれ、そのように決議されるべきものが機会を逸したり適用が遅れることが、何故、国民ではなく国会議員の痛みなどと言えるのか不思議でしょうがない。

これこそ詭弁であり、時の政権政党を利したり官僚を利するだけでしかない。
もし国民に痛みを強いた代わりに自分たちも、というなら議員定数削減ではなく議員歳費の削減を含めて政党や国会議員に掛かる経費全体を削減することではないだろうか。

つまり近年、持ち出されている国会議員定数は、本来の趣旨からすれば的外れであり、むしろ危険と言わざるを得ない。

多くの人は報道番組やテレビドラマあるいは小説で国会を取り巻く実態について見聞されているかと思う。
与野党の政権に対しての質問に対する回答は所管の省庁の役人が草稿を書いている。つまり役人無しには大臣他の行政の責任者は国会での質疑で回答できない。

回答できないから役人に頼る。つまり役人に借りができる。その借りのできている役人を削減したり、退職後の天下りや天下り先の削減あるいは業務委譲などのメリットを外す事などできない、という事になる。

以前も批判したが、野田佳彦が首相在任中に朝霞の公務員宿舎建設が始まってマスコミがそれを取り上げ騒ぎになったことがあった。誰がゴーサインを出したか。財務省が建設に許可、つまり財源という予算許可を出したために建設に着手したのだが、そのサインをしたのが野田佳彦。

国家財政が破綻する、そう言って社会保障費等緊縮財政や消費税増税が必須、というその話の根源である財務省が何故、公務員宿舎建設などと言う喫緊でもないものに予算を付ける事をしたのか。

野田佳彦が財務大臣としてサインしているのだから野田佳彦が公務員宿舎建設をやれ、そう命じたか? ノーである。こんなもの大臣が自ら言うわけがない。ましてや前任の菅直人が参院選挙前という大事な時に党の瓦解に結びつくかも知れないリスクを負ってまで消費税増税はやむなし、そう言って選挙に負けた後であり、同じく消費税増税を叫んできた野田佳彦が、自らそういう馬鹿な話をするわけがない。

ところが実際に野田佳彦がサインをしているのだから、これはどういう弱みを財務省官僚が握ったか知らないが、財務官僚から持ち出した話に野田佳彦がサインをした、そういう構図である。

たぶんに野田自身が財務大臣として国政に関わる時に財務官僚の助けがなければ国会を乗り切れない、そう判断した背景が窺われる。

官僚が大臣や政務官の国会での答弁に必要な資料の収拾や作成をすることは否定しない。しかし、人形遣いのように大臣や政務官の一挙手一投足まで操る答弁書を作成することは国会への冒涜であり、権限逸脱である。

だから国会議員は自らやスタッフで資料収集や作成をし、政府閣僚や政務官なども自身やそのスタッフで答弁できるようにしなければならない。逆に言えば、大臣や政務官の答弁書を作る時間的余裕があるなら官僚こそ削減しろ、そういう事になる。

官僚は所属省庁の大臣や政務官等の国会答弁書を作成するのが仕事ではなく行政の実務家として国会を通った法案をいかにその趣旨が生きるように国民に喜んでもらえるかという事に邁進すべき性質のものであって、政権政党へのサービスマンではない。

これらのことを理解できたら、おかしな議員定数削減などの話は出てこないはずだ。こんな話はそれこそ国会軽視、ひいては国民の声を無視する官僚主導の政治の強化でしかない。

軽自動車税の増税 [政治]

軽自動車税が上がることになった、というよりはもう上がった?

増税と言ってもたかだか3600円、そういう話もあるが、これは軽自動車に乗っていない人の話で、乗っている人には、出費が嵩むものの一つという事になる。

私も昨年、車を購入したが、これとて家の事情で必須。さらに言えば、私の住む地域はとんでもない人間が多く住んでおり、車に自転車で突っ込んできたのはまだいい方。いや、これとて、私は理不尽にも司直がでっち上げて3ヶ月も不法に拘束され、多大な金銭的損失他を負っている。不幸中の幸いは、私や同乗していた高齢の母には物理的被害はなかったという事だけ。

だが、私の母は父の運転する車に乗っていた時に脇道から突っ込んできた車によって左半身を痛め、未だに後遺症に悩んでいる。私が50歳前に仕事を辞めざるを得なかったのも、母親が事故の後遺症で長い距離やそこそこの重量物を持てず、日常生活に支障を来していたからである。

我が家はお人好しで妹が医者曰く、死を覚悟してくれ、というほどの重傷を負った歩行者としての交通事故でも相手側に損害賠償請求さえしていないし、母の件もそうで、後遺症が出た時(事故の事さえ私は知らなかったのだが)には、私が介護・介添えをせざるを得ない立場になっていた。この時も全く損害賠償請求もしていなかったらしい。結果、私がババを引いたことになったようなのだが。

そして妹は、自身が車を運転するようになってから二度も脇道から突っ込んできたトラックに当て逃げされて、負傷している。二度とも妹は気を失い、警察は相手を捕まえられなかった、というよりは真剣に捜査していないと言うべきか。他力本願の警察は相手がその場にいたり周囲から情報がなければ、何もしないというかできない。

このような不心得者連中の多い地域に住んでいれば、軽自動車に乗るのは自殺行為に等しいので、はからずも我が家は今回、分不相応に普通乗用車を購入している。

しかし、日常生活で車が必要だが、今の日本経済では収入としても多くを望めないという人は多く、軽自動車を購入せざるを得ない、という人も多い。軽自動車が多く売れている背景を考えれば安易に増税などできるはずもないと思うのだが…。

交通事故で大型トラックでなく普通乗用車が相手であってさえ軽自動車に乗っている側はほとんど死んでいる。そういう事情があってさえ軽自動車を選ばざるを得ない人達の事をどれだけ税調を牛耳っている自民党国会議員は知っているのだろうか。

国民の税金で食っているはずであるのに、その国民の多くは生活を切り詰めざるを得ない状況もわからず、自分たちは黒塗りの車に悠然と乗っている。これではたかが3600円の増税、そういう事になるのだろうか。

しかし、今、物価はそれもこの4月からどんどん上がっている。決してデフレ脱却のための経済好転という事ではなく円安が大きく関与している。だから安倍晋三が何と言おうと可処分所得は減っており、消費が定常的に上向くという環境などあり得ないのだ。

一つ一つの額は小さくとも全てが値上げされていけば、トータルとして許容範囲を越す額になってしまう。ところがこれを補填するどころか、補填に向かうべき財源が企業減税やら株への投資促進などという訳のわからない金持ち優遇政策に化けてしまっているのだが、虚業を繁栄させても人々の心が豊かになる事はない。

こんな政策しか打ち出せないような政治家は辞めるべきと思うのだが、国民の上にいる意識の国会議員や行政に携わる連中には、そんな事、理解できないのだろうか。

安倍晋三の罪?! [社会]

確かに予報は出ていた。

だが、それにしても単なる寒さと雨はあまり共通しない。それがけっこうな降雨と梅雨時と見紛うばかりの長雨。

それが予報の日時に近づくに従ってみぞれか雪の降るところもある、そういう話に切り替わっていった。

そう、これから段々暖かくなると言うか夏に向かって暑くなる日も増えてくるのではという夏日を迎えた地域もあるという、この時期に真冬でもこれだけの寒い日は一年にあまりないという、その寒さが来た。

これは円安誘導で消費財が値上がりして個人の懐の寒さが倍加しているところに、アベノミクスなる経済政策でデフレから脱却して経済が順調に回復する、という触れ込みで日本のみならず世界各国で中身のない、この政策をアピールし続けた、その経済政策がお寒い状況にあるという、二重の寒さが寒気を日本に引き込んで季節外れともいうべき真冬の寒さになったものだ。

このどちらかでもましな状況にあればこれほどの寒さにはならなかった。
だが、この4月からあれやこれや我々の懐を直撃する諸物価価格の上昇。
寒くならないわけがない。

つまりこの季節外れの寒さは安倍晋三の経済政策が呼び込んだものだ!

さて、安倍晋三や自公政権の横暴ぶりには眉をひそめる御仁でも、上記の論理、正しい、そう思う人はいないだろう。

まあ、安倍晋三の政策が我々の懐を直撃し、それも中小企業や一般庶民は円安でアベノミクスなる経済政策が実施される前には同じものに対して支払っていた金銭の1.5倍近いものを支払わなくてはいけなくなったのに、方や大企業は円安で輸出好調になり利益幅が膨れあがり、そのいくばくかを従業員の賃上げに回しているという構図。

つまり我々庶民から搾り取った金を一部の大企業やその従業員に回すという構図を作っているのだから、私が安倍晋三のことを暴騰述べたように揶揄しても、安倍晋三はそれだけのことをしているのだから、全く関係ないとは言えないのだ。

ところが、栗田健一なる人物は、上記のような、ちょっと考えれば全く論理的に合致しない状況のものを、栗田健一とは全く関係ない私に罪を着せて頬被りしている。

どっちが犯罪者なのか、そう思うのだが馬鹿は馬鹿の論理で動くという、その代表的な例なのだろう。しかし、世の中にはこういう人間的に愚劣な裁判官達のせいで大変な目に遭っている人達が多い事、知って欲しい、そう思う。

冤罪は自然に起こるものではなく、馬鹿としか言えないほど狭量、視野が狭いかあるいは自己保身、自身の出世しか頭にない人間性の愚劣な裁判官達の悪意がなければ起こらない。

結論からみるととんだことに名を出された安倍君。しかし、君も我々庶民の金を金持ちに持っていくような政策を取っているのだから罪は重いのだよ。

一片の曇りも許されないこと [社会]

私がサラリーマンとして仕事をしていた時、いい加減な仕事をしているなあ、そう感じることは多かった。だが、これは私ではなく周囲や取引先の仕事ぶりについての感想だ。たまに、そこまでやらなくても、と思うようなしつこくやる人物もいたが、そういう人物に限って的外れという事だったり。

私の知る人物の中で、そのしつこい仕事ぶりをする年長者がいたが、基本中の基本をその人物がやっていたので、これは周囲が悪く言うことではなく、むしろそういう人物が社内にいること、会社の製品として信頼性が上がる、と評価すべき事だったはずなのだが、評判が悪かった。

評判が悪いというのは、社内にその仕事に対しての理解がなかった、そういう事になるのだが、まあ、そんな事、分かるような輩がそこには私以外にはいなかった、それがその会社の将来を暗示していたのだが、案の定、私が見通した結果に繋がった、私はそう見ている。

さて、そのような話が民間企業の中であるならば、業績不振程度の自業自得で終わるかも知れない。だが、宗教の世界でお坊さんがいい加減なことを言ったり、本人が確信に欠けることをしたら非難されるのではないだろうか。見えない世界に関することは、それを伝える人の絶対的確信が必要なようである。

これが警官であったらどうだろうか。これも逮捕や送検あるいは処理に自身で疑問があったとしたらどうだろうか。それでも、やって良い事だろうか。相手のないことであれば、害がない、そういう事もあるかも知れない。しかし、相手のある場合、その対象者やその家族や友人達には大変なことになる。

警官にはどうもこういう大事な事に対する認識が薄いのではなく欠けているようである。だから平気で人を罪に落とすのだが、もっとひどいものがある。

以前のブログにも書いたが、物理のぶの字も知らないくせに知ったかぶりをして運動エネルギーが40000ジュール以上あるから衝突エネルギーも40000ジュール以上などと、そうではない前提の構図を認識している上で小学生並みの事を判決文に書いた裁判官がいるのだが、事実関係を知らない皆さんはあまり理解できないだろう。

だが、以下の説明付きならどうだろうか。
車がある速度で自己移動している時に運動エネルギーという物理量を出す場合、速度や質量に依存する運動エネルギーの算出式に数値を嵌め込むと結果の数値が出てくる。この運動エネルギーが40000ジュールだとして、衝突エネルギーが40000ジュールという数値になるにはこの自己移動している車が瞬時に速度がゼロになるほどの衝突があった場合、つまり運動エネルギーの40000ジュール全てが変換されて衝突エネルギー40000ジュールになった、そう言えるのだ。

これは時速30キロで走行してきた車が例えば地下駐車場の大きなコンクリートの柱とかあるいは一般の道路際の電柱等にぶつかってその柱のところに止まった場合に、持っていた運動エネルギーが全て衝突エネルギーに変換された、そのように言えるものだ。

だが、車の前部に大きな損傷どころか打痕すらないものが、人が乗った自転車を撥ねたと訴追していて、車が一瞬にして止まってもいない、その事故構図を認定した上で、上記のようなことを裁判官は言うのだ。どこの世界に人の乗った自転車と衝突した1トンを越す車が衝突した地点で瞬時に止まる構図があるだろうか。

こんなものは一点の曇りもないどころの話ではなく、それこそ、勝手な話を持ち出すだけで罪悪であり、こういう話を持ち出した本人こそ刑務所に入るべきものである。

また、例えば、時速35キロで人の乗った自転車に車をぶつけてその乗員をボンネット上に撥ね上げて等という内容の警察調書。裁判官は時速は30キロと認定する、そう言っている。裁判官は被告人を嘘を言う姑息な人物と認定しているのだが、そういう姑息な人間が事故について実際の速度よりも大きな数値の車速を言うだろうか。当然姑息な人物であれば、罪を逃れるあるいは軽くなろうと自身の責任を小さくあるいは無くすために過少申告するので、まさか時速30キロの車速だったら、時速20キロとかそう言うのではないだろうか。

心理学の専門家と称して、心理面での話になると弁護士や心理学の専門家等には決して解釈の面で譲らないという裁判官にして、この馬鹿馬鹿しさなのである。
さて、もっと馬鹿馬鹿しいのが、ボンネットに跳ね上げてという調書内容である。

裁判の過程でボンネット上に跳ね上げてなどという事実認定は検察も裁判所もできていない。そりゃそうだろう。僅かにボンネット上に残る条痕(あくまで条痕であり人がぶつかったような面上の凹み痕の欠片もない)を自転車籠の底部による傷などと強弁し続けた手前、他に傷がなければ、さすがの嘘つき検察でも、言いようがない。

つまり調書の内容と物証に整合性がない。これっておかしい、一般人ならそう思うだろう。何故ならば警察調書は、事案に関して捜査して事実となる事を元に作成されるものであり、事実と整合しない調書など認められるはずはないのだ。もし、事実でないものでも調書として認めれば、これは幾らでもでっち上げができる、即ち捏造でも何でもありで冤罪の山となる。

ところがそういう常識的な基礎部分でも裁判所は平気で間違いを犯す。
事実と整合しない調書を認めてはいけない、その基本中の基本すら理解できない人間が何故、裁判官などという職業に就けるのだろうか。

裁判というものは人の生活や将来までもそしてその家族、友人の運命さえも変えてしまう大変なものであるのに、裁判官の出す判決は一片の曇りもないどころか、一つ一つ間違いの山である、これがどうも通常の裁判らしい。

裁判官というと難しい司法試験を通って司法修習生としても優秀で人格も高潔、その様に思われている人が大半だと思う。

しかし、たった一つの案件で見たって間違いだらけ、それも判決に関わる根幹のところで間違い、人格高潔などとはほど遠い、自身の保身優先で無実の人間でもあくまで罪に落としてやろうなどと言う栗田健一他のような人物がやっているのだから、とんでもないことなのだが、彼らにはここで書いた意味合いでさえ理解できないと思う。

所詮、上だけ見て暗記優先で学業してきたおつむには、本来の裁判の意義も意味合いもわかっていないだろう。
だが、裁判の判決には一片の曇りも許されない、そういう性質のものであること裁判官達が理解し実践しなければならないものなのだ。自覚できるだろうか。

安倍政治について [政治]

何故、我が家が野良君達に人気があるのか知れないが、しかし、毎日、その恩恵によるお返しとして車を汚してくれるのには困ってしまう、その洗車作業の疲れか、あるいは大きな気温変動による体調不良によるものか、あるいは介護の負担が増えたせいか、ブログ更新どころか訪問さえもできなくなってしまいました。

今日も体調不良を押して、というところでしょうか。

自民党総裁である安倍晋三の政治について述べるが、これを批判したからと言って野党側、特に民主党がよい、そう断言するものでもない。

だが、国を危うくする安倍政治を自民党自身が制御できないのであれば、これはもう改めて別の政党に政権を担ってもらうしかない。いや、本当は既成政党などに政治をやって欲しくなどないのだが…。

まず、安倍政治なるもの、安倍晋三は政権奪取の前にはっきりとその内容について国民に出しただろうか。

志向する国の形を、出すべきだし、それをせずに、例えば経済政策で信任を得たから他のこともやっていいというわけではない。そこのところが、今の政党政治の限界なのだが、こういうところで暴走が止められない。

我が家もそうだが、テレビでは4月に入った途端に多くの品物が値上がりしたという事でインタビューされた人達の悲鳴の声を拾っていた。

現在、たまたま、原油価格が下がっているので、家計の直撃と言うよりは近くで爆発するものの影響、しかしこれも直撃に近いものだと思うが、その円安の影響は一般消費者中小企業には大きい。

つまり個人とか企業体とか問わずに低所得層に厳しいのが今の円安構図なのだが、これが続くと国力ははっきりとそしてめっきりと落ちることははっきりしている。

国力を落とす一方で周辺国と対峙する言動を首相が行うなどとんでもないことだと思うのだが、同盟国であるはずのアメリカでさえ、顔をしかめる靖国参拝などという行動を取った人物がいかに美辞麗句で戦後の70周年を語ったところで周辺国には底を見透かされるだけである。

国力が落ちれば彼の国が自分たちの欲するところのものについて武力の絡む行動を起こすことははっきりしている。

実力で経済界のトップに立ったとは思えない人物達が牛耳る経済界も、目先しか見えないので、これまた政治の暴走を止められずに国を危うくするところにもって行くこと、今までの行動で明らかである。

格差社会で経済的に厳しい生活を送らされた挙げ句、国の危機に直面して、さらには武力衝突が起きた場合、前線で相手国の弾の盾として使われるのでは割が合わないと思うのだが、しかし、第二次世界大戦の日本兵の多くはそういう兵隊さんであったこと、日本国民はもう忘れたのだろうか。

国力としては彼の国のようなおかしな国にちょっかいを出されないような高度の経済力・軍事力を保持する必要がある。だから経済重視という事、批判はしない。しかし、今の経済政策は決して経済重視とは言えないどころか、一部の人間への富の偏重をより図っているものである。

これは、ピケッティ氏の{21世紀の資本論」という難しそうな書物を持ち出すまでもなく、国を富ませる、つまり低所得層から恩恵を受ける政策をしていかない限り、金持ち優遇政策など行っても、その金持ちが基盤とする国自体がなくなる危機に陥る、という事なのだが。

経済や軍事に偏重せずに外交でも平和外交を進め、武力で自らを正当化するような国の出現を阻むような世界情勢の醸成を図る国にならなければ日本の地勢では国が危うくなるのは元寇というもので日本は経験済みなのだ。

日本には神風が吹くとか神国日本は戦争に負けない、そういうものが全く意味のなかったことは先の大戦で明らかであり、今後、その危機が出てくる恐れがあるのだ。

独立国として全てを自己調達で賄えというのではない。アメリカだってまず考えるのは自国の利益であり、今までは発展途上で、戦争などしていられない国と自覚していた中国がAIIDなるものでのアメリカとの闘いに勝ったという自信から今後暴走する気配が出てこないとも限らない。

こういう時に世界が日本の味方になるような外交さえできずに国力を落とす考えしか持っていない経済人と政治家。いやはや、とんでもない国に生まれてしまった、そのようにこの年で思うようになるとは。

吉野文六氏の死去 [政治]

エープリルフールを契機に猫族に共存のための提案をしたのだが、すぐに泥足で洗車したばかりの車に乗るという、こちらの提案を逆撫でする行為に、この話は決裂、どなたか人間のエゴを鎮める方法を模索して欲しい。

さて、ではいつものように浅ましい連中についての話を。

外務省のアメリカ局長を務めた吉野文六氏が死去したが、民主党が政権に着く前にいわゆる日米密約などの存在について、色々とずっと政権の座にあった自民党や政府の公文書等公開するように要求していたことについて、沖縄返還での日米密約の存在を認めた人物である。

この事、確か、民主党が政権の座に着いた時に、日米密約の存在については調査して公表する、そのように約束したはずなのだが、確かに調査結果としては発表したものの、その密約を裏付ける文書の存在自体については見つけられなかった等、尻すぼみの内容であった。

これら一連の話については公開するように要求する発端がアメリカ側の文書の公開によるものであり、そこには吉野氏のサインいわゆるBYという吉野氏の姓名のイニシャルが存在し、それを吉野氏自身が自分のサインであることを認めている事からも沖縄返還に関しての日米密約の存在が裏付けられている。

ところがどうだろうか、日本側にはその文書が存在しない、というのだ。日米両政府でそれぞれ持つ、それが外交文書というものではないだろうか。それが日本側には存在しないなどというはずはない。これに関しては問題になった頃、外務省の官僚がそれまでの主張と整合させるために密かに破棄した、そういう話まである。

事の真贋はともかく、実際に存在すべき文書がなければ、その責任を追及するべきではないだろうか。これは国民の代表として国会に席を持つ人間、つまり国会議員の責務である。

これをやらない国会議員、そしてそれを隠匿した官僚達の根底にあるものは所詮国民などと言うものは馬鹿でしかない、そういうものに大事な外交の何が分かるというのか、だから国民の目に触れさせないのは自分たち優秀な人間の責務なのだ、とまあ、そう言ったところではないだろうか。

しかし、こういう考えに染まった官僚や政治家達の方がよっぽど馬鹿としか言えない存在なのだが、彼らの頭では分からないだろう。
つまり未だに封建時代の名残であるお上意識から抜け出られていない前時代的感覚の持ち主であると言ってよいのだ。

お上だから、国民より上にいるのは当然。という事は人間的にもおつむの上でも上だから自分たちの判断が正しい。そして馬鹿な国民が外交機密など知ったってよい事はないから国民の目には永久に晒すな、そういう事なのだろう。

しかし、今や主権者は国民であり、官僚といくらふんぞり返っても、国民へのサービス業の一員でしかない事、理解すべきである。それが嫌なら民間企業で働くべきである。まあ私の見るところ上ばかり見て創造性もない彼らでは、民間企業への天下りというシチュエーションでもなければ、まともなことは成し遂げられないと思うが。

そういう位置づけの官僚達が大事な国家の契約に関するものを国民の目から遠ざける権利はない。最近では強権的な国家組織について、とかくの話のあるアメリカでさえも一定年数を経て公開される機密文書について日本政府は存在を認めず、公開しない。.この事は、日本政府が日本国民をアメリカ国民よりもお馬鹿だと断じている、そういう事だと思う。

こういう事、黙っていると本当に日本国民は馬鹿、そう思われると思うのだが、それに気づかない国会議員など我々の代表ではない。国会を本当に国民の手に戻す事をしなければ、この国は強権国家への道を歩んでいくのではないだろうか。

地方議会の事 [政治]

書いている途中で居眠りをして、その際にキーボードを触れてしまったようで、おかしな状態のものをアップして意味のないものを皆さんの目に触れさせてしまったことをお詫びします。

書き直しです。

さて、少しも盛り上がっていない統一地方選挙。首長選ではなく議会選挙においても全員当選のような無風選挙が増えているとか。
いや、必ずしも無投票が悪いなどと言う気はさらさらない。

一般市民にとっては間口が広がって議員となって本来の市民のための行政が増える事は喜ばしい事なのだが、しかし、それはそうなって初めて、喜ばしい、そう言えるのだ。

現実の地方議会とはどういうものなのか。
残念ながら、私は自分の住む地方議会の傍聴をしたことはない。
しかし、一昨年、私が訴追された刑事事件の案件で私が住む自治体の共産党市議と私の人権の回復について話をした時に、この程度の見識しかないのか、そういうものと、自分たち(党利党略)にメリットがなければ動かないし、意見も聞かない、そういう姿勢を見て、こりゃ、駄目だ、そう感じた。

別に共産党バッシング(バッシングでもいい。人権の意識の欠片もなかったのだから。ただ、政権政党の今の自民党政治はひどすぎる)ではなく、一般的に市政側からすればうるさいはずの共産党市議にしてこれなので、他の市議ともなればなあなあなのだろう、そういうものだと思った、という事なのだが、これを裏付ける話がある。

既に記憶に霞が掛かるような状況だが、確か北海道の議会について元鳥取知事を務めた片山善博氏が学芸会だと称して、その事で言われた道の議会(道か市かどこだったかは忘れたが)ともめたが、結局、議会側が揉める分、実態が明らかにされるとまずい、そう判断したのか、トーンダウンしてそのまま霧消してしまった。

学芸会というのは、質疑応答が全てシナリオにのっとっていて、議員がそれを演じている、そういう事であり、これらシナリオは役人が書いたものを使用している、つまり全く市民の代表という意識もない議員達が行政から提出された予算案について、審議すらできずに通してしまうという現実がある、そういう事なのだった。

国会議員もそうだが、道府県議会やその下の自治体議員も、自分たちの存在する意味を理解できているのだろうか、そういう疑問がある中、今日も、その義務感の見えない議員候補の選挙活動の声が聞こえてくる。

守られない交通マナー [社会]

昨日はエープリルフール用に我が家の天才娘というかお転婆猫との会話から嗜好を変えて書いてみたのだが、以前書いたエープリルフール向けの内容、未だにアクセスが多い。という事で罪作りにならない程度で少し遊んでみましたが、皆さん、心の余裕はどうでしょうか。

さて、ではいつものスタイルで。

私が交通事故であらぬ罪を着せられたからと言うわけではなく、常日頃から明文化しなくてもマナーレベルとして、お互いに気をつければ角突き合わせて生活することがない、そのように思う事、意外とできていない。

我が家には90を過ぎた高齢者がいる。笑い話ではないが、こちらが聞き取って欲しいと思う音声は聞こえず、どうでもいい音源だけは聞き取る。

高齢が故に突発的な音は心臓に悪いらしい。
しかし、環境騒音とでも言おうか、車社会では轟音を上げて走る車や無用な警笛を、しかも、不快に感じるような鳴らし方をする人物もいる。

以前、我が家の向かいに住んでいた家族の中の若者がそれこそ隣近所に聞かすつもりか、大音声でステレオを掛けていたが、たぶん、誰も注意をしていなかったのだろう。ちょうど父親が亡くなって、私が実家に移ったばかりの時で、母親の心臓に悪いと、注意をしたのだが、こういうのは同じ地域内なので対応がつく。

ところが、住宅地で他の地域から別の地域への通過に便利とばかり、我が家の前の道路が通り抜けに利用されるのだが制限時速30km/hの標識があっても実際には近隣住民にとってはせいぜい時速20km/hで走ってもらわないと引っ掛けられる可能性のある生活道路なのだが、そこを40km/h以上で吹っ飛ばしていく車がけっこう多い。

だが、この道路には郵便局が面していて、朝から晩までかなりの車が利用している。つまり郵便局やその周囲に車を止める状態が日常化している、そこに通り抜けしようという車が絡んで、それら駐車を意図している車にどけ、とばかりに大きな警笛音を鳴らすのだが、これが聞いていて不快になる出し方をする。

鳴らす本人はそれ一回のつもりかも知れないが、ここに住んでいる人間にとっては、それが定常化して騒音公害にさらされているのと同じになる。

確か、車の警笛音は”どけ”という意味合いで鳴らしてはいけない事になっているはずなのだが、バックすると危ないよ、そういう警告音ではなく、駐車しようとする車の所に自分が後から来て、すぐさま、大きな警笛音を鳴らすのだから、鳴らされた方だって、びっくりしたり焦って、ブレーキとアクセルを間違えて踏んでしまうかも知れない。

幸い、今まではそういう事故がなかったが、その郵便局は母親も含めて高齢者がけっこう利用するところなので、不心得者がこの道路を単なる通り抜けに利用して欲しくはないのだ。通常は車が多いと迷惑に感じるだろうが、私はそういう駐車しようとしたり駐車する車のせいで、むしろ通り抜けの車も速度を落とさざるを得ず、その方がここに住んでいる人間や歩いてこの道路を通行する人間にはよい、そう思っているのだ。

ところが事情を知らない巡回の警官が時折、駐車禁止だとかスピーカーで警告していくのだが、だったら、速度違反する車を先に取り締まれ、そういう事だ。結局、警官などと言うものは我々の生活にはちっとも貢献しない存在でしかない。

昨日、長距離ドライブでやはり自転車専用レーンが設定された車道を走ったが、相変わらず、逆走状態で走る自転車が多い。環境整備と言っても結局、土建業者と癒着しての道路行政なのではないのか、そう思う例が多々あるのだが、ハード以前にソフトが先行するという事、何故日本では少ないのだろうか。
メッセージを送る