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あなたは今の日本で死刑制度が維持されていることどう思いますか? [司法]

前回のブログを見ると、いたるところに誤字脱字、変換ミスがあり、それらを見直す余裕もなく、アップしていたところに現在の私の体調が現れていると思いますが、眼瞼にできているトラブルは一進一退で、今後も誤字脱字の修正の余裕なくアップする可能性があること、御容赦願いたい。

そういう中での死刑執行のニュースがテレビ報道であった。そのこと自体にたいした感慨はないのだが…。
さて、私は現在、刑事での有罪の執行猶予中です。

しかし、罪を問われている事案について私も、そして私の母も私には罪がないどころか、人間として当然の行為である人の命を尊重した行動を取った、そう認識しており、決して人に恥じるものでも人に後ろ指、さされるものでもありません。ですから堂々と生きています。

むしろおかしいのは、私を嵌めた警官であり、検察官であり、裁判官達であること、もし、人民法廷という多数の第三者が立ち会える場面で審判ができるならば、本当の犯罪者達が誰かの証明もできます。証明できるというのは、我々が義務教育やその上の高等教育の初歩レベルで習った内容のものでの証明ができるという事です。

では、何故、そういうものがありながら私は有罪とされたのか?

一つには、緊張感のない仕事ぶりをして、真摯に事案を検証することなく、惰性で私に長期拘束を強いた栗田健一という人物を筆頭とした裁判官達の保身というそれこそ、こういう職業に就いている人間としては情けない、自己保身優先、という行動が基盤にあります。そしてそう言う連中が職務上人を無実の罪に落としても訴追されないという不公平な法体制。

この手の事案としては異例という、保釈請求の却下(地裁レベルで言えば5度の請求をことごとく却下。弁護士レベルで言えば最高裁への特別抗告までしていて、それも却下)がありました。
年間、数万という数字では収まらない交通事故において同様事案で、保釈請求をことごとく却下し続けた、などという話は弁護士も事故鑑定人という職業の人達も聞いたことがない、そういう事でした。

もちろん、私の事案を扱った弁護士や交通事故鑑定人達が全てを把握しているという事ではありませんから、たぶん、どこかにそういう被害者がいると思います。私の事案でさえ、全国区というわけではないのですから、知る人の方が少ない、そう思うし、また、警官や検察官、裁判官達の態度を見れば、たぶん、そういう被害者が他にもいるだろう事は想像がつきます。

裁判の進行や結論をみてもこいつらがこういう事をやるのは初めてではないのではないか、そういう思いがしました。人を拘束し続けている間に、強引に周囲の人間を騙して調書をでっち上げる、本人を騙して罠を嵌める、こんな事は私の事案だけでも両手の指では足りないくらいにあったのです。

一審の裁判官達は、つまり私を凶悪犯並みに処遇した裁判官達にとって、裁判が始まってから、私が無罪でしたでは、下げたくもない頭を下げるか、マスコミ等批判が起こり、それによって昇進の道が閉ざされる、そういう事は受け入れ難い、そういう事だったのでしょう。

彼らにとっては、訴追されるような連中は虫けら同然だから、多少、冤罪気味であったとしても死刑というような人命を断つというほどでもないので、自分達の価値からすれば、こんな事は大したことはない、そういう考えが頭をもたげたでしょう。そして実際彼らは、判決等で被告人である私を煙に巻く事ができる、すなわち、科学的に反論などできはしない、そのようにも考えたようです。

何故ならば、多くの事案で、それで済んできた経験則があるから。そして実際、自分たちで考えても分からないから。
しかし、暗記して必死に司法試験を通過したくらいの頭脳では、こと技術的分野においては裁判官など我々優秀な日本の技術者からすれば赤子同然、そういう事まではあまりに彼ら自身が傲りすぎて分からなかった、という事です。

各所に綻びが出て、それこそ嘘と詭弁で強引に誤魔化して有罪判決を出した、私の事案ではそういう事をしています。この事案の細かい内容については、それこそ小学生でも分かる、私自身はそう思っていました。しかし、優秀に思えた日本人が実はそれほどでもない、ということもわかったので、このブログにアップしても、あまり意味がないので、ここでは載せません。

しかし、以前にも一部、披露したように、数万ジュールの運動エネルギーを持っているから衝突エネルギーがその数万ジュールだ、などと、素人が見ても馬鹿じゃないか、そう分かる馬鹿さ加減、しかも文章として残る判決文に書くくらい馬鹿なのですから裁判官の頭脳など知れています。

しかし、事実と異なる判決を出しても、事実と違うならば高裁や最高裁で事実認定される、であるのに何故、おかしな判決をこの連中は出すのだろうか、そういう疑問が私にはありました。ここで考えて欲しいのは日本は三審制の国だという事です。つまり判決内容が事実を正しく反映していないと思うならば、二審、三審、そのように上級審判を求める事ができる、そのように我々は小学校社会では習いました。

例えば私のケースでは一審で、既に私と利害関係ができてしまい、当事者化してしまった一審の裁判官達が自分たちの保身を優先して私を有罪としても高裁の裁判官達は、私とは利害関係はなく、公平に第三者として内容の審理を尽くせるはずです。

また、仮に高裁で判断を間違えたとしても最高裁では多くの裁判官が審理に加わるはずですから、一人でも事実を理解できれば、それは他の裁判官とその内容を共有できる、即ち誤審の可能性は低い、そう思います。

ところが、私の事案ではこの高裁の審理も科学的検証などそっちのけで、できの悪い高校生レベルの検察側鑑定人を経験、経歴から信用できる、そのような言葉で判決の根拠としただけで何一つ科学的合理性のある内容を出さずに、一審の有罪維持という判決でした。

ん? おかしいんじゃないか?
何故、科学の時代の裁判で、こんな人治紛いの裁判が罷り通るんだ? そう思いました。少しおかしい、なんてものじゃありません。10も20もおかしな事ばかりの内容、それも科学的に全くおかしな話ばかり。

私からすれば物事の何たるかも分からない幼稚園児、それもわがままいっぱいの子供が我を張って、こうだ、そう言い張っているだけの内容に思えます。泣く子と地頭には勝てぬ、そのような鎌倉時代にいたる歴史を習った事がありますが、裁判官達は当時の地頭紛いでしょうか。

当時の地頭とは論理的整合性などお構いなしに無理を通してしまう、そういうことですが、今は、そのような封建の時代ではありません。

先進の法治の国家、それが日本の筈です。
という事で、最高裁に上告したら、裁判官全員一致で上告を棄却、そのように通知してきました。
実は留置されていた時に、当時の弁護士が、地裁支部の裁判官達はおかしい、こんなに保釈が通らないなどという事はないので、最高裁に抗告する、そのように最高裁に抗告という形で出したものも棄却、そのように通知があり、当時の弁護士が保釈請求に関して、「もう打つ手がない」そのように言った経緯があります。

もちろん、私には、抗告の棄却の意味はわかっていました。最高裁が取り扱う事案ではない、そういう門前払いだった、つまり弁護士が背伸びしたけれども、適当にあしらわれた、そういう事です。しかし、結局、その事が、調書類の捏造や長期拘束されるような人物だからおかしな奴に違いないと、事案内容よりも誤った属性等裁判に不利な状況を形作った可能性があります。

しかし、人の一生を左右するような刑事裁判で、この裁判官達、あまりに緊張感がなさ過ぎないでしょうか。
保釈請求に関する話に関しては、彼らの業務範疇ではないという言い分、百歩譲って、それを認めるにしても、高裁判決の内容があまりに低レベルであることでの上告には、私だったら、本当にこれだけおかしな要素がある事案、そう見れば有罪の判決自体おかしい、そういう思いで、余計な罪人を作ってはいけない、そう思うのですが、全員一致で棄却? わかりませんねえ。

私の思うに、最高裁の裁判官は傲りすぎて、自分たちが汗をかくには内容がつまらないから、検討するにも値しない、棄却だ、そのような判断だった、そういう事でしょうか。
この時点で私とは”人間として”違うなあ、そう思います。

もちろん頭脳にしろ人間性にしろ私の方が上だと言っているのですよ。
私だったら、おかしな事が存在する事自体、先進社会で裁判制度というものの意味がなくなると考えて、そういう物を無くす方向に行動しますが、まあ、主権在民すら理解できない裁判官達では、無理というものでしょう。

利害のない事案でさえ、簡単に放置できる裁判官達は主権在民よりも裁判所の権威というものつまり体制の権力維持しか頭にない、そういう事でしょうか。しかしこれって、憲法違反じゃないの? 主権在民を踏みにじり人権を蹂躙してどこが司法なのでしょうか。

こういう人達が裁判を担当しているのです。

私の事案自体は裁判関係者達が軽視する交通事故でしたが、しかし、私を拘束している間に、でっち上げや捏造など警官、検察官達はやりたい放題。そしてこれに裁判官達が加担していたのですから、より重い刑事事件では、そういうことはあり得ない、果たしてそう言えるでしょうか。

私の事案、依頼した弁護士達や事故鑑定人の一部を除いて多くは、私に非がある、そう断定しました。
何故、そう断定するのか?
実際に裁判沙汰に関わっている彼らでさえ、警官や検察官達が作成した調書や資料を全面的に信じて、私の言う事には耳を傾けませんでした。

最後まで私の言う事に耳を傾けなかった弁護士、事故鑑定人もいます。

事実関係さえ見抜く力もないのに、そういう有罪無罪の分かれ目に当たることを材料として出せず、むざむざ無罪の人間を有罪にしてしまう、そういう弁護士も多いとか。

そして真摯に職務に取り組まず、緊張感のない仕事ぶりで無実の人間を有罪にしてしまう裁判官達。

近くでは足利事件、布川事件という冤罪を皆さんは知っているはずです。何故、管家さんや、桜井さん、杉山さんといった人達が無実の罪で刑務所に入らなければならなかったのか?

でっちあげや、捏造した警官、検察官だけではなく、判決を下したのが裁判官達だという事実、皆さんはちゃんと理解していますか? そして裁判所がこういう冤罪に関して、どのような改革、改善を行ったでしょうか。
富山の冤罪では本人が否定し、アリバイまであるのに、そしてそれを確認していてさえ警官は送検し、結局、送検されたら起訴、そして有罪、そのまま刑務所入り。

実際の犯人が犯行を自供して初めて冤罪が露呈したわけですが、それまでは警官も検察官もそして裁判官達でさえ、適正に業務を執行した、そのように自分たちの行為を正当化して、誰一人罪に問われない。

通常の冤罪での裁判官達は、何故、でっち上げをした警官や検察官達に全ての責任を押しつけて頬被りしていられるのでしょうか。間違った判決を出した裁判官達のほとんどは、謝罪すらしないどころか知らぬ顔の半兵衛です。人間としてどうか、そう思います。

厚労省の当時の局長だった村木厚子さん。
この方は私よりも長く拘留されていました。本格的拘留だから拘置所でしょうか。私も拘置所送りの一歩手前、さらには検察官が掛けた罠に嵌っていれば拘置所送りから、裁判での有罪即ち、実刑で確実に1年を超す刑務所暮らしになっていたはずです。

私の場合は、どうかと思う裁判官ばかりでしたから結局、有罪という冤罪を押しつけられてしまいましたが、村木厚子さんのケースは裁判所というより、検察の自滅で、彼女に全く責任のないことが分かりましたが、では、さて、その長期に渡る村木厚子さんの拘束、誰が強いたのでしょうか。そして誰が責任を取ったのでしょうか。

答えは、単純明快。裁判所が拘束を決め、しかし、無実が分かった時に長期の拘束を強いた裁判官達は謝罪しなかったと思います。そのような報道が当時、目につきませんでした。しかし、彼女がラッキーだったのは私のように長期拘束を指示した裁判官達とは公判を担当した裁判官達が異なった事だと思います。いや、この内容については私の知識にはなく弁護士情報です。

さて、私も人に頭を下げるのは嫌いです。ですから、念には念を入れる、そうします。しかし緊張感のない仕事ぶりの裁判官達では上記のように冤罪ばかりではないでしょうか。自分たちでそれが分かっているのに、何ら改革もしないし、謝罪もしない。

ゲスですね。

しかしゲスだと彼らを誹っていても、冤罪被害者は次から次に出てきます。
だったら、まずは死刑を無くすしかないのではないでしょうか。
犯罪、特に重犯罪への抑止力としての死刑制度というもの、果たして本当に意味があるのか。

間違って無実の人間を死刑執行した責任は誰に、どこにあるのでしょうか。
つまりこういう事の追及を避けたいために、裁判所は再審に歯止めを課しています。逆です。

アメリカでDNAを犯罪事実の認定材料として使い出したら、多くの冤罪が判明したとか、そういう話があってさえ、日本の司法は動きが鈍いし、国民も動かない。

そりゃ、家族を殺されたら私も復讐に行きます。相手を撲殺します。
しかし、事情があって殺された場合でも必ず相手側を殺すでしょうか。

我が家は私の妹が、医者から死を覚悟してくれ、そのように言われたほどの歩行者として車に撥ねられた事故の時でさえ、損害賠償請求など考えた事もないし、とにかく助かってよかった、そういう事と、撥ねた人物がその時どういう状況であったか、そういう事にまで配慮してやったほどのお人好しです。

この社会で生きていく以上、マナーもルールもある。そしてそれは皆が納得するものでなければならないのに、今の裁判制度は怨みを残しているのです。

とんでもない交通事故や無差別殺人など近年、犯罪の凶悪化と言われて、それを背景に重罰化が言われ、実際、道路交通法の改正で刑罰が重くなっている。しかし、これらの重罰化は犯罪抑止力になっていない。何故ならば、さらに新たな重罰を考えざるを得ない犯罪が出てくるからであり、実効性が本当にあるのか? という事になる。

私が私自身で検察官や裁判官、そして弁護士や保険会社の人間から聞いた話を総合すれば、刑の重罰化は単に検察官や裁判官達の、自分たちにおもねない奴は重罰にしてやる、という武器にしかなっていない。

はっきり言って、この国の主権者は国民であり、不当に一般市民を罪に落としたりあるいは重罰を与える権利は本来、裁判官達にはないのであって、いや、法律でそういう権利が与えられているなどと言うなかれ、自画自賛で国民不在の法律制定を官僚達がやってきた、そんなもの法の下の平等を詠った、憲法違反であり、そんなもの理解し得ずにおかしな法律に安住しているような人間達が判決を下す裁判など、とうてい信用などできはしない。

これでもまだあなたは、死刑がこの国に存在しても問題ないと思いますか?

安倍晋三がやっている事に気を取られていると… [国際]

体調を崩している時の報道であり、また情報が溢れている時の中のさわり程度のものだったので多くの人が看過したかも知れないものがある。

いや、これ自体が色々な解釈と共に語られるので、問題点がぼやけてしまい、言わんとすることを片隅に追いやられてしまう事も多いのだが。

第二次大戦という戦争について単に日中戦争レベルであるなら終戦も含めて当時の日本の行政に携わっていた人間や軍部も国を挙げての総力戦など想定すらしない、そういうことだったと思う。しかし、旧日本軍やインドシナ等アジアのあちこちに進軍する事でアメリカの経済制裁がいよいよ本格的になり、褌を締めて掛からなければならない、つまり開戦の覚悟をするか否か。

そこに至って、当然の事ながら日米開戦での戦力や国力比較というものが為されている。
その時の数値が実際よりもアメリカに関して低く見積もられたようだが、それでも軍の指導的立場にいる何人かは開戦の回避を最後まで望んでいたらしい。

それは当然の事ながら、そして特に海軍などは日本だけでなく海外に出て行くのでアメリカという国を知る機会も多かった、そういう事であるだろうしまた、イギリスやアメリカの軍人との交流もあり、そういう知人達と戦火を交えることについて気が乗らなかっただろう面もある。

しかし、いくら低く見積もってもアメリカの工業生産力が日本の数倍はある、その事は見通しの厳しさを与えたと思う。
終戦直後、従軍した人達は日米の工業生産力の実際の数値が、数倍程度ではなく、少なく見積もっても10倍は下らない、通説では14倍程度、そのように知って、よくまあ無謀な戦争をしたものだ、そういう事を隠して国民を悲惨な目に遭わせた軍部はどういうものか、そういう批判の目で見た、そのように私は多くの戦争に関する著作物で読んでいる。

戦後、焼け跡から復興した日本はアメリカの援助もだが日本国民自身の必死の思いもあって、一時期はアメリカを凌駕するのではないか、そのようにアメリカ国民自身が不安に駆られるほどの経済成長を遂げて世界屈指の先進国となった。

そして今なお、日本が一流国であり高い生産性を持つ国という幻想を抱いている。
冒頭の多くの人が看過したであろう報道内容によれば日米の工業生産性比較ではアメリカは日本の14倍強、だったと思う。

そのくらいの差であってさえ日本はまだ、アメリカに次ぐ世界第二位の工業生産性を持っている国である、というのも希望的観測でしかなく、日本がまだ世界有数の先進国であるという感覚の元に自身の売名行為で分不相応の資金援助などやっていると、困るのは国民である。

高度経済成長などと浮かれてその結果を甘受していたのは、数字だけ操って仕事をした気になっていた上を向いて自分の事しか考えない一部の人間だけに他ならず、その彼らこそが日本の生産性を落としてしまっているのに、全く、天に唾している事に気づかずに、相変わらず生産性を落としているという事なのだが。

今さら高度成長期のようにハードな仕事ぶりに戻せなどと言う気はない。何故ならば、ハードな仕事ぶりなどと言っても一般労働者や中小零細業者がハードになっても本来、もっと汗をかかなくてはならない経営陣等企業の幹部が、そういう働く人達を、当時ほど尊重するという事はないし、また、彼らを守る立場の人間も減り、法律も国民の為に存在しているのか疑問、そのように戦後の長い間に官僚達によって変質してしまっているからである。

こういう実態の中、安倍晋三が気前よく前述のように身の丈とはほど遠い、国際的な金のばらまきと、自身の売名に繋がるようなことばかりやってもらっても困るのであり、もし、それをやりたいなら、どうしてこういうところまで日本の生産力が下がったのかとか、何故、ことほど生産効率が悪いのか、そういう事を構造的に解明し、改善して初めて、自身が思うような方向性を出せるのではないだろうか。

実体、実力も知らずしての現状は身の程知らず、そういう誹りを免れない。

たまには充電 [日記]

ここが、どういうブログであるか、私は、自身の事よりも世の中のおかしな事について見過ごす事が住みにくい社会になると、僭越ながら、と一応つけさせてもらうが、警鐘や啓蒙のつもりでこのブログを書き始めたのだが、そのおかしな事に自身が巻き込まれて、最近は読まれる皆さんが”私個人の鬱憤晴らし”と勘違いするような内容のものが多くなってしまった。

怒りがないわけではない。しかし、私の身の上に起こったことも、やはり放置すれば社会の劣化に繋がるものであるので、その事を踏まえて書いてきたつもりなのだが、体調のこともあり、丁寧な内容にはなっていない。つまり読み手が理解しにくい内容になっているものも多い。

それを承知で書いてきているが、まあ多分、訪問されてきている方や、私が呼びかけた方達にしても、伝えたいもの、他のブロガーに知られるのは躊躇う、そういうものもあるかもしれない。

また、私にしても、放電状態ばかりでは薄っぺらな内容の焼き直しという事になるかも知れないので、たまには皆さんの忌憚のない考え、意見を拝聴したく、メッセージの受付が機能しないので、今回はコメント欄の受付のみで表示はしないことにします。

積極的平和主義ってなんですのん?! [政治]

「ラッスンゴレライ、ラッスンゴレライ。ラッスンゴレライ、説明してね」

「ナマステ、ナマステお兄さん。ラッスンゴレライって何ですのん、説明しろと言われましても、意味分からんからできません」

「積極的平和主義、ラッスンゴレライ」

「積極的平和主義? それなんですの? 初めて聞く言葉ですやん」

訳分からん芸人コンビのネタで乱暴に表すとこんなところでしょうか。

私達は平和主義という言葉が表す意味はだいたいわかると思いますが、それに何故、何のために積極的などという枕詞が必要なのでしょうか。

我々日本人が戦後積み重ねてきた平和主義であるとか日本が戦後一切の軍事衝突や武力に訴えることなく得てきた平和国家という国際的な信用・信頼では何故いけないのか、という事ですが、はてさて、こういう言葉を作り出して持ち出してきた理由は何でしょうか。

以前、勤務していた会社に中国人がいましたが、これが全く馬鹿と言おうか、見え見えの嘘や謀をやっていたのですが、これに迎合する奴がいるととんでもないことになると思っていたら、案の定、世の中には馬鹿と思えるのが1人ではないようで、結局、職場が胡散霧消という事になったそうですが、そういう事思いだしました。

しかし、主権者たる国民の負託を受けた行政が国民を騙してリスクの大きな方向にもって行くなどふざけた話です。それも見え見えの手でやるのですから、あまりに国民を馬鹿にし過ぎてないでしょうか。

積極的などと言って、集団的自衛権などもひっくるめてアメリカの武力行使に付き合って第三国の領土・領海などへの派兵など行っても国家としての利益どころか国民だって危険にさらされると思いますが、最近のアメリカ絡みの軍事行動を見ていてわからないでしょうか。

こういうものを持ちだしてきた自民党議員の多くは対等な日米関係というものを根底にした時に、日本も同盟関係を継続していくならば、同盟国であるアメリカのために血を流す関係でなければならない、そう考えているようです。であるならば、おかしなものでくるまず、日米同盟について、あるべき姿を議論していけばいい、そう思いますがね。

米軍が関与した中東アフリカ地域の紛争は、結局、何が正しくて何が正しくないか、はっきりしないままに人命が多く失われることが延々と継続していっています。つまり積極的平和主義などと言ってアメリカの戦争に加担して介入していってさえ、その国では、誰が勝者になるか分からない時代なのです。

ベトナム戦争の当事者であるアメリカとベトナムの関係が今、以前ほどではない、というのは共通の利害が表に出てきているためであり、こういう事は国際関係にあっては珍しいかも知れません。

中東などでは国と宗派が絡み合った上に民主化あるいは厳格な原理主義が跋扈しているので、それこそ人道的見地からと、赤十字的対応はよかれであっても、武力を伴う介入は必ず、怨みを生むわけですが、安倍晋三を代表する自民党はどうしようというのでしょうか。

財政規律がどうこう言って強引に消費増税を行っても、一度軍事行動が起これば、多額の軍事費が必要になる。これは国民が求めていることでしょうかね。

「ラッスンゴレライは安倍晋三」
「なら説明できますねん。安倍晋三も訳分からんから訳分からんラッスンゴレライ言われても納得いきますねん」

手前勝手 [社会]

改正道路交通法について昨日ブログに書いたばかりで、早速、また暴走自転車に出遭ってしまったのだが…。

今日、ふだんとは違う買い物で、朝から車で走り回ったのだが、用を為さず、午後にも私が罪を問われた事故現場に近い大型のショッピングセンターに出掛けていった時の事。

右折で件のショッピングセンターの駐車場に入っていく形になったので、反対車線の車を先に行かせて、右折しようとしたら、かなり前方からドロップハンドルの自転車が歩道をまっしぐらにこちらに向かって走ってくるのに気づき、自転車を先行させたのだが、改正道路交通法について新聞テレビであれだけ報道されていても、全く意味がない。

そもそもその道路は県道に交差するせいぜい市道レベルの道であり、車道と歩道が分離されているとは言え、人が横に並べばすれ違える程度と言えばよいだろうか。自転車走行許可が出ている歩道には思えないのだが、仮にそうであったとしてもそんな速度で走るべきものではない。

つまり相変わらず、その地区は暴走自転車が走っている、そういう事なのだが、果たしていったい誰が、そういう連中を増長させたのだろうか。

私がその地区を自転車で走っていた時(私は車道を走っていたのだが)も歩道をママチャリが私を抜いていくのだから、この地区の自転車乗りは根本的におかしい、そう思っている。

私の自転車はいわゆるレーサーではないがランドナーなので変速機の付いている、ママチャリよりは速度の出る自転車なのだが、だからと街中で危険な速度で走ったことはない。

つまり手前勝手な奴がいかに多いか、そういう事なのだが、ついでに。

私が逮捕されて、パトカーでその所轄の警察署に連行されていく時のこと。

パトカーを運転していた警官が、その途上、一時停止のところで、車はこう運転するんだ、私に向かってそう言ったが、車を操作する技量はともかく、いわゆる交通マナーとしてなら、私から言わせれば、お前の運転はなっとらん、そういうレベルでありならが、偉そうな口を利くものである。

強引に捜査途上で逮捕しておきながら、私が一時停止すらできないなどと勝手に決めつけるな、そういう事である。

その時点まで数十年もの無事故無違反運転ドライバーなのだから、やはり、それだけの理由があるのである。

何故、パトカーを運転していた警官が私から言わせれば失格なのか。
それはこの警官、一時停止直前まで速度を落とさずに一発のブレーキ操作で停止させたからだ。交差する道路は優先道路なのだ。所轄の警官が自分の庭のようなところでそういう運転するなど、全く何を考えているのだろうか、そう思った。

つまりこの警官も手前勝手な奴だったのだ。
優先道路を走行している車のドライバーは交差する道を走行する車が目に入った時に、その車の挙動を気にする。

速度が落ちれば、一時停止で止まる、そう判断できるのだが、速度を落とさずに一時停止線直前まで行けば、ブレーキを踏むのだろうか、踏まずにそのまま突っ込んでくるのだろうか、そういう不安をあおる。

だから一時停止のある道路ではそこよりも事前で一時停止線で止まる車であるという事を周囲にわかる操作をする、これが交通マナーであるのだ。以前は多くの車がそういう操作をしてくれていたのだが、今は、このおかしな警官と同じで、全く分からない運転するドライバーが増えている。

仮に突っ込まれたら、こちらにも過失がある、そうされてしまうのだから、こういう事、警察はもっと徹底すべき事なのだが、警官にしてこんなレベルでは、そういう事できはしないだろう。つまり脇道があるごとにドライバーは車の速度を落とさざるを得ない。これではエンジンを定常回転させられないのだからとてもエコ運転などできはしないのではないだろうか。

そういう運転をする私が何故、自転車に突っ込まれたかって?
自転車は、私の前方の視界に入る位置にはいなかった、つまり後方から私の車より高速で言わば追尾ミサイルのように突っ込んで来たのだから、避けられようもない、そういう事なのだが、まあ、暴走自転車の多い地域という事を知っていても、都合の悪いことを隠す官憲のいる地域では、マナーを守った方が間違い、そういう事になるだろうか。

いずれも手前勝手な奴がおかしな事をやっている、その例だが、こんな社会が果たしていいのだろうか。

改正道路交通法と私の冤罪 [司法]

一時、好転したかに思えた目の調子がどうしてもパソコンの作業などすると、目の表面が乾いてしまうためか、すぐに悪化してしまうので、ブログの再開がなかなかできない。

昨夜も手術後では一番ひどい状態だったので今日は安静にしようと思っていたのだが、新聞、テレビで掲題の事、盛んに報じているので、私の事案についても触れておきたい、と書くことにした。

何故ならばあまりに人を馬鹿にした裁判だったからだが。

まず、掲題のもの、中身は自転車の不法無法走行に対しての規制というものだ。

だが、さて、いきなり自転車の不法あるいは無法走行が問題になったのか?
否である。

こんなもの以前から無灯火や道路逆走などが問題になっているもの、しっかりとした対策もしないうちにエコなどという話と携帯や音楽をイヤホンで聴きながら自転車に乗る等といったものが入ってくるうちに自転車走行自体が無法化したというものであり、昨日今日始まったものではない、という事だ。

つまり最低でもこの十年、いや、それ以上前から自転車の無法振りは問題になっていたのに、自転車の事故というと車に対しては弱者だからと、その事故実態を正確に調べもせずに弱者救済などと知った風を装い車のドライバーを一方的に悪いと決めつけてきた司法・行政の姿勢が無法な自転車乗りを増長させてきた、そういうものだ。

私の事案は2010年に、自転車も一時停止で右左という横断幕が張られていた現場で私の車に突っ込んだ自転車によって引き起こされたものである。つまり、その現場にはそういう横断幕が必要な事態があった、そういう事でありその事、警察自体が知っている話という事なのだ。

ところが、裁判では私の車の速度がいくらだったとか、脇見をしていた(担当警官が取って付けた訴追理由)とか、そういう話ばかりで車が単独では事故が起きないのだから、当該車両のもう一方である自転車について、走行経路とか速度とかあるいは、何故、その現場を通ったのか(重要な事実が隠れている)とか、そういう事が審理されねばならないのに、全く、不問に付されてしまった。

もちろん、私ほどの頭脳であれば、そういう事、審理するのは当然、そう思うのだが、弁護士が何故、その事執拗に追及しようとしなかったのか、わからない。しかし、全く取り上げなかったわけではない、それを一審の裁判長であった栗田健一は全く一言も触れずに判決文で、執行猶予を付ける理由として、自転車も一時停止していなかったから、などと取って付けた話しかしていない。

自転車が一時停止しなかったか、そんな事、証拠も何もない話だ。警察の調書にも何も出ていない話なのに、私を嘘つきと決めつけた栗田健一が、担当警官が言った話として私が証人質問の中で、その話を出した、それを判決文の中で執行猶予を付ける理由の一つとして出したのだ。

私は警官がそう言った、そういう話はしていても私自身が自転車が一時停止していない、そういう証言はしていない。何故ならば、私の車の前方にその自転車はいないのだから、一時停止云々の話ではない。衝突時に突如現れた、そういう自転車を一時停止していないなどと言っても意味はない。だから私はしていない。そして検察の提出した資料にも一つもそういうものはない。

なのに何故、栗田健一は自転車が一時停止していなかった、そう言えるのだろうか。この栗田健一という裁判長を努めた男は本当に訳の分からん人物である。

少し話はそれるが、車の任意保険を掛けていた保険会社の担当者は、
[今は、車のドライバーに厳しい時代だから、せいぜいがんばるんですね」
このような失礼なことを言った。

周囲からはみんなが知らないような保険会社を使うからだと言われたが、周囲が思うようにこの担当者はゲスであった。保険会社の名前を知りたいという御仁にはお知らせしよう。

似たような反応は知人達からでなく共産党系の組織や以前にも書いたように共産党の市議からもあった。つまり世の中の実態を正確に捉えることなく、冤罪でっち上げの過去がわんさかある警官や検察の訴追を無条件に受け入れる素地というものが、こういった連中にはあった、そういう事になる。

しかし、テレビや新聞で報道されるまでもなく、町を歩けば無法自転車が我が物顔で暴走していること、誰もが感じていたはずなのであり、そういう事に感性のない連中が、事故当事者に対してだけ、いかにも世間的ブームに乗って正義漢面することは止めろ、そういう事だ。

栗田健一などは、物証等で反証されてぐうの音も出なくなった事案を、職権で証拠不採用としたり、調書開示請求の却下としたり、一方的対処で強引に私を犯罪者としてしまったが、果たしてどちらが悪人なのだろうか。

公正公平な裁判であれば、まして事故現場には自転車に対する警告や横断幕等複数もある場所であり、当然の事ながら自転車に対しても検証すべき事柄が山のようにあった、それを全て蓋をして、とにかくこの種の交通事故としては異常な保釈請求をことごとく却下するといった対処をした自分たちを正当化するために有罪ありきの審理を行ったのであるから、栗田健一こそ、裁かれなければならない。

交通則を守り、事故で重傷に見える人物を救命しようとした人物を、罪に問うなどという社会が先進社会のどこの世界にあるというのだろうか。まさしく、緊張感のない仕事をした、その事を恥じたり反省すべきところ、自分たちの落ち度を職権を利用して人を罪に陥れるなど、犯罪以外の何ものでもない。

もうあちらの世界に行こうかという高齢の母が、テレビで報道されているこの改正道路交通法の説明を聞く度に私の事案での判決に怒りを露わにするのだが、当然の事ながら私だって腹が立ってしょうがない。

私の体調不良の原因のほとんどは、プレッシャーから来るストレスではなく、持っていき場のない怒りによるストレスから来るものなのだ。

この事案の犯罪者達には思い知らせなければ母親が死んだ時に浮かばれない、そういう事になるらしい。
覚えておけよ、偉そうにした無能な裁判官、検察官、警察の関係者!

私の怒りやこういう文章を異常と思う御仁もいると思うが、私の知る限り、陥れられた冤罪被害者はもちろん、裁判で一方的にやられた人達でさえ、「もう数十年経つが、あの裁判官や検察の野郎達、ぶっ殺してやりたい」そういう言葉が出る。

裁判が新たな怨みを作るような社会は正常な社会と言えないのに、関係者達はわかっているだろうか。いや、頭の悪い連中だから未来永劫わかりはしないだろう。
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