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企業文化 [経営]

電機業界で言えばシャープ、東芝。車関係で言えば三菱自動車。以前ならば考えられなかった大変な状況に陥っている。

 私が年齢としては既に現役とは言い難い、その年になって偉そうに言う、そういうものではなく、現役時代から感じていたのだが、経営層に人がいない、そのつけを一般従業員まで払わされている、そういう気がしてならない。

 企業風土とか企業文化とか、あるいは社風、そのような言葉で語られていたもの、今の企業内では死語になりつつある会社が多くなっている気がする。

 もちろん、モーレツ社員なる言葉が存在した高度成長時代の方が経営者にも会社の私物化あるいは社会の一員としての企業という位置づけが理解できない人物も多かったので、企業風土が、自社の自虐的内容で語られることも多かったと思う。

 さて、三菱自動車が燃費に反映させるべき数値を偽っていた、という話、三菱自動車の最近の不祥事隠しと併せて企業風土のごとく語られるが、前述のごとく、三菱自動車に限らず、多くの企業で似たり寄ったりだろう。

 IT系企業の実態については、私が精通しているなどとおこがましいことを言えるものではないし、多くのケースで起業と絡んだ企業状況があるので、無責任な経営者は、むしろ少数派なのではないか、そのように考える。

 だが、かつて大企業として名をはせた、あるいは就職先としてもてはやされた企業の今日の体たらくはどうしたことだろうか、というものについて。

 このブログで何度も書いているが、私は低能裁判官たちによって犯罪者にされてしまったが、低能の所以は、小学生でもわかるのではないかと思う内容を理解もできず、科学的根拠のないいわゆる、論だけで人を犯罪者に貶めた、これと共通するものがあるのではないか、そう思っている。

 例えば、目標値を設定する場合、寡占企業ならば競争相手のことは気にしなくてもいいのかもしれない。
 しかし、この資本主義に基づいた自由主義社会において、競争相手は無視しえない。

 車で言えば燃費競争というものもあるかもしれない。だが、現場を軽視して経営だけの観点で数値しか見てこなかった経営者と軽視されて人員も職場環境も整備されてこなかった現場の技術者では共通の認識はもてないのではないだろうか。つまり、信頼関係などないに等しい、そういう中で厳しい話が出ても、それをクリアできるものは少ない。

 自身の話をして恐縮だが、どうしょうもない企業にいたことがある。やはり円高で輸出型産業であった私のいた会社は何とか材料調達を安くしたい、そういう思いでいた。ビジネスマンであれば知らない人物はいないくらいの著名人であった人物が経営者として、調達の担当者にハッパをかけたことがあったが、“わかってないなあ”私はそう思った。

 技術で売る企業で技術者として名をはせたその経営者が、自身も技術部門を統括していてさえ、自分のところの実態を知らなかったのだ。
 
 現代社会で、たとえ大企業でも、自社製品のすべてを自社で作るわけにはいかない。したがって、自社開発をするか、あるいは自社開発しても他社に製造委託するか、あるいは他社の仕様のものを購入するか、製品を構成する部品や付帯品において、そういう判断がある。

 ところが、私がいた企業の技術担当部署は、取引先や新規を狙う企業が、お伺いとして出してきた仕様や図面をもとに調達するのだ。

 つまり調達部門の人間としては、設計部門から、具体的な購入仕様書や図面が会社の独自設計として出てこなければ、仕様や図面を出してきた企業以外からは購入できないのだ。これが技術者なら、汎用であるものと固有であるものの線引きができるだろうが、設計者でさえ設計できないもの、なんで調達部門の人間が判断できるだろうか。

 結局、技術部門の責任者であるあなたが、まずは、購入仕様書を調達部門に出すように技術部門を指導しなければ、あなたの言う意味はありませんよ、このように同席した私に言われた、その経営者は耳が痛かっただろうと思う。

 しかし、こんなのはいい方で、強引に数字を与えてそれをクリアすることを要求する経営者が多い。

 アメリカ型の科学的経営手法とやらを崇めてどこもかしこもなびいた結果、日本の製造業の実力が色あせてしまったのである。何のことはないアメリカ留学とやらで数字ばかりこねくり回すことが優先するような目先にさとい人物を重宝して現場をおろそかにした結果、突破力のある人材が現場にいなくなった、そういう事だろう。

 だから設計部門にいても設計すらできない人物ばかりが技術者の顔をして企業内で育ち上の顔色ばかりうかがう。その究極が、自分たちは何もせずに子会社あるいは取引先業者と呼ばれる企業に無理を強いて辻褄合わせをする企業文化ばかりが育ってしまっている。

 シャープも一般従業員ではなく、経営者に人材がいなかった、そういう事であるのに、おかしな交渉に経営層が巻き込まれ、銀行も、今が凌げればいい、その程度で鴻海への売却を選択したから、今、一般従業員は大変だと思う。

 もっとも、根拠のある主張があるならばそれを評価する企業風土を鴻海は持っている。その意味では無能な経営者の下にいるよりも従業員としては幸せかもしれない。

 企業文化などというものは経営者が変われば百八十度変わってしまう。そのようなものよりもたとえ経営者といえども数値目標には根拠が必要だという事、経営者自身が知るべきであるし、また責任を自身がとる、そういう経営者でなければならない。

蒸し風呂 [日記]

親の建てた実家に戻ってからもうかなり経つが、父親の形見のような我が家。ぼろ家ではあるが、形見という感覚があれば、そう簡単に建て替えなどという気にもならなかった。

 いや、他にも理由はある。自身の金で購入した分譲のマンションに将来的に住むという奥の手もあったからだが、あまり実家の維持ということに関しては気にも留めていなかったのが、将来、空き室率が増すという事を考えて、昨夏、自分のマンションを売ってから、実家のあちこちが気になってきた。

 形見という気持ちよりも住み心地として考えた場合どうか、そういう目で見た場合、建て替えた方がよさそうだ、そういう事になったのだが、自然災害がいつ降ってわかないとも限らない日本という土地柄、最低限、そのことを頭の隅に置くと、現在の家の維持を優先しようという結論になった。

 という事で痛んでいた部分など、外壁の塗装を建築会社の保守部門に依頼することにしたのだが、タイミングが悪かった。

 今年は前年を更新しての高温になる予想らしいのだが、既に連日30度を超している。そこへもってきて窓ガラスなどマスキングという事でただでさえ熱い我が家がより高温になる条件がそろってしまった。

 外に出ると風が吹いて凌ぎやすそうな天候も、家の中にいればひたすら太陽の熱を浴びて家の中の気温の上昇という要素しかない。

 食事が終わるとすぐにテレビを消したりして発熱を抑えるようにしているのだが、ふだんよりも温度上昇が確実に速い。あっという間に30度を超したのだが、動けば暑いだけ、と午前も午後もひたすらひっくり返って寝ているだけなのだが、それでも暑い。

 もう熱中症気味で頭痛、鼻水、関節痛、だるおも、とCMの文字が頭の中を駆け巡る中、テレビでは相変わらず現都知事のしみったれた話で、気分の晴れるのはいつになるやら。

 あと、一週間かかるらしいのだが、私よりも高齢の母親に影響が出ないか、本当に心配である。入れ物に気を使って中身を傷めてしまっては意味がない。

矜持 [政治]

古いパソコンから新しいパソコンへの引っ越しがうまくいかなかったので、手作業で一つずつデータの移動をしている最中に、都知事の公私混同の話が出て、それにのめりこむようにブログを書いているさなか、新しいパソコンがフリーズ、あれこれやっているうちにどうにもこうにもならなくなり、パソコンの再セットアップせざるを得ないかとメーカーに連絡を取った。

 再セットアップと言ってもマニュアルには書いていない状況からだったのだ。メーカーの担当者に事情を話して、バックグランドでは何か、作業がされているようであることを話したら裏技を教えてくれた。

 と、どうだろう、引っ越し以降のデータが消えると覚悟していた再セットアップの必要性がなくなり、今、こうして安心して都知事の事、書けるようになっている。先達に聞くということは、大事なことだと改めて思う次第。

 さて、都知事の色々言われている話。法的に問題がない、そう言う人物であっても、だからいい、そういう事ではない、と言っている。

 そう、悪法も法なり、などとふざけたことを言う人物もだが、法がその全てではなく、一から十まで網羅したものの方が少ない、そう見るべき、つまり法に触れないからいい、というものでもない事、公人であるなら知っておくべきなのだ。

 所詮、人間が作るものだから、完璧などという方が少ないし、完全無欠ではない人間が作るものだから、一部の人間の利益を代表したものや、恣意的に抜け穴だらけにしている、法とは、そういうものでもある。

特に、政治に携わる人間に対してのものが実質、縛りのない抜け穴というもの、多いことが残念だが、結局は役得、特権、そう言ったものから自身、逃れられない、そういう人種が多いことを示している、そうは言えないだろうか。

現都知事に関していえば、居座れば居座るほど、次から次に出てくる話が、さもしい、卑しい、みみっちいなどと修飾語としては嬉しくないものばかりで形容されるようになってきている。

スキャンダルの中には世間が誤解しているものというものも少なくないが、事、舛添要一氏に限っては、法に触れないというそれだけであって、中身つまり、そもそもは金にまつわらない政治をしてほしいということであったり、あるいは庶民の貴重な税金であったりしている。

つまり、元をただせば、舛添要一氏のような使い方をしていいというわけではなく。そこは性善説に基づいた、そう解釈せねばやってられないほどのザル法なのだが、しかし、少なくとも1,300万の都民の生活に関わる政治を行う人物がこういう感覚で税金から報酬を受けてはいけない、そう思わないだろうか。

最近の政治家や、役人たちを見て本当に思うのだが、彼らには矜持というものがないのだろうか。
さて、その矜持として、今の都知事が都知事として何をやったのか、見るべきものがない、そういう話も一方では聞こえてくる。まさに矜持とは無縁の政治という事だ。

と、ここまでは都知事の金曜の定例記者会見前にパソコンが復活した嬉しさでの勢いで書いたものなのだが、その後、ニュースで断片的に報道された記者会見での都知事の述べた内容はまさに法的に問題がないことを弁護士という権威を使っての逃げという、上記、私が指摘した内容を証明するコメントに終始したらしい。

つまり私が読み切った通りの人物であった、そういう事だったが、何も私が凄い、という事ではなく多くの皆さんが同様の感触を抱いていること、この人物にはわからない、たった、それだけの人物でしかない、そういう事だ。

余談だが、舛添要一氏が辞職した時、次の都知事を担う人物が思い浮かばないかの、コメントを出す都民もいたが、とんでもない。そんなもの自公の政治的判断でしかない。まず都民ありきであって、自公ありきではないし、この程度の人物に及ぶ人間がいないなどと言われては、それこそ、認識不足、見識が足りない、そう言いたい。

私など政治経験が全くないが、少なくともこの私でさえ、舛添要一氏などはるかに及ばない実績を上げられると思う。なぜならば、舛添要一氏が秀でているのは外国語でのコミュニケーションのみであり、都政における都民への貢献実績が全くない、というのだから、ちょっと何かやれば、舛添要一氏に実績が劣るわけがない。

はっきり言えば、都民の心も読めない人物よりもこの一連の問題の核心がわかる人間であれば、だれでも舛添要一氏よりはまし、そういう事だろう。


公私混同、その2 [社会]

現都知事である舛添要一氏が炎上しつつあるが、果たしてその結末がどうなるか、というところも本人の本質がどのように出るか、影響するところも大きいかと思う。

別に関心をもって見るわけではないが、多くの報道系番組で取り上げられるので目にも耳にも入ってきてしまうのだが、ヤメ検の住田弁護士の言葉が言いえている、と思う。曰く、もともとの本質が色々と出てきてしまっているのではないか、と。つまり大名行列のようなそれも高額のホテル・飛行機代を使っての海外出張。そして公用車使用の私物化。遡っての私的費用への政務活動費の流用。

もっとも前都知事であった人物が、週末に公用車の使用は問題にならないが、ルールを明確にしないで都を離れているのが問題、そのように発言していた、そこのところの金銭感覚が、前都知事も現都知事も根っこは同じ気がする。こんな人物しか都知事にはならないのだろうか。いや、都民の劣化も激しい、そういう事か。

前都知事は道路公団分割民営化に功があったとして名を挙げた人物だが、私は、そんなもの決して功があったとは思っていない。この辺も人によりけりというか、皆さんの評価が随分と甘い、そう思っている。

高速道路、別名有料道路はもともと、投資額が回収されたら無料化する、そういう約束の元に、利用者から料金徴収してきたが、首都高速などは、とっくの昔に投資金額を回収したはずであるのにとうとう無料化しなかった。

そりゃそうだろう、無料化などとやれば、料金徴収等から数珠つなぎになる人件費の発生意義がなくなるから、天下り団体となりえない。せっかくETCやDSRCなるものまで導入して天下り団体の意義を出すようにしているのに無料化されては天下り先を確保してきた役人が困るのだ。

 結局、官僚の書いた筋書き通りに事を運んで行った、いや、分割した分、ポストの数が増えたので、その分、官僚には受けが良い、そういう事だろうか。だから都知事を辞めることになった事由について、逮捕するような内容ではない事でも逮捕する検察が動かなかった、そういう事だろう。

 小泉純一郎という人物、自民党にも官僚にもしがらみがない、そういう本人の思い込みで官僚の大きな天下り先である道路公団を潰すべき政策をとったつもりだったが、何のことはない、終わってみれば天下りポストが増えただけ、そういう事なのだが、それでも都民の皆さんが何か勘違いするものがあったのだろう。だからこそ猪瀬直樹氏は都知事選に400万票を超す歴史的得票で大勝したのだが、その前都知事と本質部分で共通項のありそうな現知事が前知事が辞職したのと似た金銭感覚の持ち主であってもこのまま居座れるだろうか。

 私のサラリーマン時代、取引先の人物が色々と接待してくれた。いや、私自身は自分の金での飲食や遊興にも制限をかけていたほど自律していた人間なので、他人の金でそういう事、よしとは思わなかったのでだいたいは断っていた。

 ところがある日、「たまには受けてください、でないと我々も遊べないんです」そのようによく誘ってきた人物に言われた。複数の同僚からも、うーさんが行かないと我々も遊べないんだ、そのように言われた。

もともとの感覚が違うのである。他人の金で飲食したり遊んだりして後ろめたい気がしないのだろうか、そのように思うのだが、そういう役得のある職に就いたのだから利用しない手はないとか、そういうことだろうか。

私は仕事の中身では妥協をしない厳しい仕事ぶりで、周囲にも取引先にも厳しい姿勢を示していたので、どこかで弛緩部分を作らないといけないと思い、自分だけではない時だけ、接待を受けるようにした。

 ところが、卑しい人間とは、本当に卑しいもので私が日常的に接待を受けているように陰口を聞いていたらしい。

 そういう事を考えると、いっそこういうようにした方がいい、そういうものを見せてくれる上司がいた。

取引先への宿泊出張の時、朝一で相手企業に入る場合、前泊の、その夜はだいたい相手企業の接待が行われる。

 ところが、私のいた事業部の責任者、つまり事業部長は相手企業にいつ、どこに宿泊するとかいう情報を一切与えず、自分たちだけで夕食をとって打ち合わせとも言えないような簡単な話と語らいをして、翌朝、相手企業に赴いたのだが、だからと私は何の不満も感じなかった。

 そういうやり方をしていれば、そんなものかと相手企業の接待を期待しないで済む上司、同僚、部下が周囲に増えてくるのではないか、そう思ったが、あにはからんや、工場建設で建築請負の企業の接待を期待した連中に集団で陥れられた事がある。

予算を握っている私抜きでは接待を受けられない。かと言って、土建業の接待のうまみを契約時に知ってしまって、その魅力からは逃れられない。結局、接待など眼中になく仕事の中身にのみ関心のある私が邪魔と、それぞれ思惑のある連中で自分たちでも担当できるからうーさんのような有能な人は、より先端の技術開発に集中するべきと、事業部長に進言したのだ。

そういうやましい心とは無縁の事業部長は、それもそうかと、同意したらしいのだが、まあ、人間とはさもしいものだと思う。

よく、お里が知れると言うが、これも出生による差別的な内容なので使いたくもないが、しかし、そういう人間ばかり見ていると、さもありなん、そういう気になってくる。
私の中では出生に限らず卑しい人間は卑しい、そう思っているが、まあ、育った環境に左右される弱さというものが人間にはあるので、残念な事ではある。

しかし、人間には学ぶ力、能力があるので、出生がすべてとは言えない。逆に裕福な家庭あるいは良家の血筋に生まれて他人を見下すという人物も多い。

結局、本当に頭のいい人物は、人とか社会とかそういう事をよく理解できる人なのだと思う。

現知事が頭がいいかのような話をよく聞くが、私にはそう思えない。彼の場合、マスコミに出始めた当初から、さもしさがにじみ出ていた。
本当に頭がいいなら、知事職とか公職あるいは公私というものをよくわきまえ、できるだけ低いコストで都民の満足度を上げる努力をするのではないだろうか。

都民のためにと負託されている税金で、贅沢三昧をしても、少しも気に病まないこと自体で最初から都知事としては失格なのではないでしょうかね。

民間企業でさえ既述のような会社経費にせずに出張時の自分たちの飲食費用を自腹で払ったり、取引先に余計な費用を負担させない人がいる一方で高額な大名旅行を当然と思うような人物が公職についているのだから、なんともはや世間は甘いものだと思う。

反社会的勢力 [社会]

テレビや新聞などの報道が最近は遠回しの言い方をするので対象がぼやけることが時としてある。

一般人や敵対あるいは競合する組織の人間を殺傷する事件などでマスコミが反社会的組織として持ち出すのがいわゆる暴力団である。

暴力団が、なぜ反社会的組織なのかというと、法律や社会のルールを破り、自分たちの構成員あるいは組織の利益を守ることを社会の利益よりも優先する、ということだろうか。

しかし、この構図、何かを連想させないだろうか。

私はこのブログで自身が警察に陥れられ、不当な拘束の上に裁判官たちの保身優先での強引な有罪判決といった体験を何度も紹介しているのだが、似たような経験をしたという人たちも併せて、孤軍奮闘いやいや、(日本、死ね)とも言うべき不当な役人社会への孤独の闘いをしている。

これは一見、少数派である個人が社会への闘いを挑んでいるように見え、その限りにおいては反社会的勢力の一端を担う形であるかもしれない。

さて、いわゆる殺人事件、それも目撃者や確たる証人のいない凶悪事件とされるもの、こういう事件での犯人の決め手としてDNA鑑定を用いるということで全米では、その見直しによって300件以上の冤罪が発覚したという。

日本でも足利事件や布川事件といわれる殺人罪で服役していたり、あるいはした人たちの冤罪が発覚したが、さて、その後、どうなったか。
彼らを陥れた連中は何らお咎めもないまま世間をのさばりまわっている。

法的なものはどうか?
なぜ、という観点もないまま、全く再発防止の制度設計すらされておらず、冤罪被害者はやられ損の状態。

日本でもアメリカで組織された冤罪を晴らす組織がこの4月に発足するということで、私も孤独の闘いをしている身なので、自身の濡れ衣を晴らすことも併せて実体験から協力することを申し出ようと接触を図った。

するとメールで返信が来たのだが、多数の打診があり、しばらくお待ちください、という内容。そのしばらくがどのくらいになるかわからないが、以前、弁護士の紹介で冤罪被害への協力依頼をした弁護士会の方などもう3年になるだろうか。

これは体験した人でなければ分からない事だが、星の数ほどあるのではないだろうか、そう思われるのが冤罪である。これほどの冤罪を生んでいる組織、反社会的組織と言わずして、なんと言おうか。

冒頭の部分で書いた、社会の利益よりも組織や組織の構成員の利益を優先する反社会的行為を行う組織が、反社会的勢力と呼ぶのならば、これだけの冤罪を生んでいながら厚顔無恥、知らん顔をして反省の色もないもない、これらの組織こそが反社会的勢力そのものではないか。

つまり反社会的組織などと暴力団等に対峙する正義の味方のようにしている体制側の警察、検察、裁判所こそが実は、法を破り(実際彼らのやることは本当にひどいものであるのに、刑務所に入らないなどというふざけたこと、体制側である、たったそれだけの理由で免罪となっている)社会の利益よりも自分たちの利益を優先させている反社会的組織なのだ。

暴力団構成員はいわゆるリスクをしょって暴力団員として活動しているのだが、警官、検察官、裁判官は国民の血税である税金で養われていながら、その国民を食い物にしている分、タチが悪い。

公私混同 [報道]

都知事が週末に自身の別荘への往復で公用車を使用していることの是非で別荘を含めてその往復の途上も公務であると、問題ないことを主張している。

人によっては都内でなく神奈川県、それもすぐ隣が静岡県という、そのような場所に防災責任者である都知事が週末毎に行くこと自体問題だ、としている。

まあ人間の数だけ意見はあるだろうが、日本の首都の知事としての格とか体面がどうだとか、そういう事で航空機のファーストクラス搭乗が当然だとか、スイートルームあるいは会議室付きだとか、それが当然のごときホテル宿泊だとか、こういうのは庶民感覚とは合わないのではないだろうか。

まあ、私なりの行政というものに関する考え方で言えば、私に行政を任せていただければ、皆さんには、こういうものを提供したい、そのように訴えた内容によって行政というもの選挙民に付託されれば、選挙民との契約を守る範囲において、どれだけ贅沢しようが関係ない、そう言えるのだが、まあ、私ほどの能力を備えた人物などそうそういないだろうから、どう贅沢しようが俺の勝手などとほざいてもらいたくはない、これが現在の都知事の行状に対しての正直な感想である。

公人となればなるほど李下に冠を正さず、であり、公私混同を疑われるようなことは厳に慎まなければならない。ところが何を勘違いしたのか現都知事は自らの職務内容が高尚であるかのような論理で公私混同を正当化しているのだが、このあたり、単なる俗人でしかない。

私が冤罪で留置されていた時、李下に冠‥で、同乗していた母親を留置場には呼ばなかった。私は事実しか述べていないが、口裏合わせなど疑われる行為をしなかった、そういうことである。

対して、栗田健一を始めとした裁判官たちはどうしたか。他に類を見ない不当な拘束命令を出し続け、その間、警察、検察はでっち上げをしていたのだが、彼らには都知事と同じように民に主権があるという感覚がなく、自分たちこそが選ばれた人間であるという庶民を見下した感覚しかない。

彼らの立場で言えば李下に冠を正さずとは、疑われるようなことをしない事、すなわち、自分たちは聖域にいるから、何でもあり、どうにでもしようがある、などと当事者たちから疑われるような状況を作らない事である。

しかるに、裁判官たちは彼らが間違った判決を下しても、何の責任も負わない、そのような裁判当事者からすれば理不尽な中で神であるかのような傲岸さをもって判決を下している。有罪の人間を無罪にしても、それが実害がなければ、その責任を問うほどのこともないかもしれない。実際には被害者が存在したとき、被害者側は納得できないだろうが。

だが、無実であるのに、そのおつむの低さゆえの、勝手な理屈による理不尽な判決で無実の人間を有罪とした場合、その責任を問われないということ自体、おかしなことではないだろうか。

裁判官にとっては、李下に冠を正さず、すなわち自身の出世や保身のために検察や行政にすり寄っている、そのように疑われることなのだが、なんと、そういう事が現実の裁判では多いだろうか。

かれらのおつむの中には自分たちが庶民とは違う、つまり特別の待遇が与えられるべき、そういう考えが流れている。
日本人にはいまだに特有のお上が偉い、そういう感覚があるようだ。

もちろん庶民の側がそういう感覚であっても行政を負託される側がお前たち庶民とは俺は違うんだぞ、そういうものをもっていては、その時点で公務員としては失格なのだが、もし、お前たちとは違うんだ、そのように私のような感覚を持つならば、そのプライドを見せる場は贅沢三昧をすることではなく、余人をもって代えがたいという実績を見せることではないだろうか。

自分たちは聖域に身を置いて偉そうに嘯く裁判官たちと同様、行政マンの長もどうしてこうも意識の低い連中ばかりが目につくのだろうか。

家族帯同で宿泊したホテルのその宿泊した部屋で政治がらみの話を身分を明かせない人たちとしたから政治資金規正法に会議費として出費することが問題ないなどというのはまさしく驕り以外の何ものでもないし、こういう公私混同をする人間こそが、政治を庶民から遠ざけているのではないだろうか。

義援金 [所感]

町内会から熊本への義援金の募金の案内が回ってきた。最低額300円以上でお願いしますとのことだったが、東日本大震災への義援金のことを考えて、その半額を町内会に支払い、別途、顔も知らない親戚に東日本大震災でねん出した相当額を払うことになった。

その町内会の分、徴収に来た担当者が、「こんなに? これじゃ困る」そう言ったが、気持ちはわかる。今時、毎日の生活に四苦八苦している身としては、助けられるものならばそうしたいが、我が身の生活を無視してまでは出せない、そういう事だろう。

いや、我が家だって、分不相応の額を出しているのだ。私が実家にいなかった神戸大震災の時、贅沢とは無縁の暮らしをしていた両親は十数万円の義援金を出したらしい。父親が亡くなり、母親の寡婦年金で暮らす状態になった今でも、困っている人にはできるだけのことをしよう、という事なのだ。

いやいや他人のためではない。情けは人の為ならず、である。
私が冤罪で罪を被せられた、という事案も、私の情けが仇となった、その事、母親も十分に認識し、また、父親が生きているときのようには自由になる金がない、その事がわかっていてさえ、町内会の義援金徴収者が自分の考えてきた金額と差がありすぎる、そういうことだったらしいが、それは個人個人事情も異なるし、自分が分相応、そう思うところで出せばいいのだと思う。

我が家は分相応という考え方ではなく、困っている人にはできるだけのことをしたい、そういう考えでの行動だが、しかし、情けは人の為ならずとは、皆がそういうことを理解し、情けを持っていて初めて意味のあることになるのであって、屑警官や下司の検察官、裁判官に世の仕組みが崩されている現代社会では、全く意味のない言葉になっているのではないか、そう思っている。

しかし現実に困っている人たちが熊本にはいるので、些少ながら気持ちが生きてくれればいいと思うのだが、自然災害という意味では日本列島に住む限り他人事ではない。その限りにおいて情けは人の為ならずである。

正直者が損をする?! [社会]

春先にパソコンを買い替えたのだが、同時に車の定期点検を機にドライブレコーダーをディーラーにつけてもらった。

車の購入時に、ディーラーの担当者には私の交通事故による冤罪事件の概略を話して、物証があってさえ、でっち上げで加害者にされるのだから、ドライブレコーダーがあっても、意味はないかもしれないが、科学の弱いおバカな司法連中が言い逃れできない映像ということもあり得るので、着けたい、そう言っていたもの、車が特殊なので、純正が出るまで待ってほしい、そう言われて、車の購入から2年経っての装着となった。

いや、必要に駆られて、そう言ったほうがいいかもしれない。
私の住む地域の交通事情、特に自転車の走行は無法以外の何ものでもない。加えて、交通ルールを勘違いしている車の運転者もいる。以前にもまして危うい場面に遭遇することが多くなった、そう言ったほうがいいだろうか。

さらに言えば、福井地裁で下った判決(中央線を越えて衝突してきた車の助手席に乗っていて死亡した人物の遺族が相手側の運転手に損害賠償請求裁判を起こして認められるという、社会通念上信じられない判決)のようなおかしな社会になりつつあってさえ、論より証拠、そのようにアピールできるものを持っていなければならない時代になった、そういう事だろうか。

結局、自衛のために、自分が交通法規を無視した運転などしていないどころか、平素から安全運転を心がけている運転者であることを証明してもらうためのものとして正直に生きている人間のほうが余計なコストをかけなければならない社会という事なのだが、これって、本当にあるべき社会だろうか。

この構図を生んでいるのは、驕り腐った裁判官や、自分たちの役割や社会というものを勘違いしている検察他の司法に関わる連中を中心とした役人たちに他ならない。

もっとも研修という名目での、外国人を農業や中小企業の労働に従事させている、あるいは観光立国と称して多くの外国人を受け入れることによる構図から生まれる治安の悪化によるセキュリティーコストなども、ただただ正直に生きてきた人間にとっては、なんだかわからないうちに、周囲に外国語が氾濫、いつの間にか犯罪に巻き込まれるという事態。

これらも結局、自衛ということで金のある人は、家のセキュリティーを警備会社と契約する、そういう余裕のない人は防犯カメラや人感センサー付きの照明あるいはドアの鍵の強化など、余計な生活コストがかかるのだが、だからと、費用をかけたからと、それに見合う収入に結び付くどころか、経年で、付け替えや契約費用が上がるなど、社会としてとても進化したとは言えない気がしている。

外国人労働者を受け入れている人たちや、観光客の増加によって利益を得ている人たちからは我が家にもその一部が回ってきているとはとても言える状況ではないのだが、我が家もぼろ家ゆえに、外国人労働者による殺人事件など受けて、色々セキュリティーの強化に費用がかさみだしている。

全く住みにくい社会になったものである。

進化しているとは思えないパソコン [所感]

前に購入したパソコンは友人が私のために会社を立ち上げるとのこともあって、手軽だが能力的には問題がないようにとその当時のノート型では最上位に相当する機種を購入していた。

当然、ノート型ではあっても、記憶容量なども、その前に使用していたノートやデスクトップ型のパソコンなどよりも記憶容量がでかく、果たして記憶容量だけで見れば使い切れるだろうか、そういう感覚があった。

ところがカーナビの更新データをパソコンで受け取るようになってから、最低16ギガバイトの容量がCドライブで必要という、その16ギガバイトの確保が昨年辺りから怪しくなり、更新データを受け取ろうというタイミングで色々不要なものを捨てなければその容量が確保できないということが二回ほど続いた後、とうとう昨秋から更新データが受け取れなくなってしまった。

記憶容量に問題がなければ、他に、使いづらいというものはほとんどない、そのパソコンをどうするか?
結局、不要なデータやソフトを捨てる、そう結論付けて、昨年末から今年の初めにかけて、整理を始めた。

ところが、捨てた時は、いくらか確保できる記憶容量が、シャットダウンして、次の日に立ち上げると、もう、危ない状態になっている。時としてアウトルックさえもが立ち上がらない、そういう状況で、カーナビの更新などおぼつかない事もあって、とうとうパソコンの買い替えを決意した。

いや、若干、金のあてもあったのだ。かなり前に中国に渡航するたびに換金して持っていた人民元。もう、相当古くなって、換金してくれるところもないだろうと諦めて放置していたもの、その大部分は捨ててしまったようなのだが、多少なりとも助けになるかと、海外で働いている友人に「使えるようだったら、使ってくれ」と渡すつもりで探し出した人民元。

友人からは、申し出だけありがたく受け取っておく、との返事で、行く先がなくなった、それをインターネットで調べると郵便局で換金してくれるという。ということでパソコンを買い替えるには十分の日本円が臨時収入として入ったのだ。

いずれ買い替えることなど考えれば以前のような最上位機種は必要でないと、ヤマダ電機で色々聞いて(同じヤマダ電機でありながら、以前の買い替え時も対応の悪い店と対応の良い店とあり、今回も前回と全く同じ構図が存在し、人間は変わっても店の雰囲気の違いに、どういうことだろうかと首を傾げた次第)ウィンドウズ10搭載のパソコンを購入したのだが‥。

まず、古いパソコンに存在する引っ越しソフトが効かなかった。そして、後述する手続きの後にトライした新しいパソコンに存在する引っ越しソフトも。

前回、引っ越し用に購入したハンディハードディスクが、どうやっても見当たらないので、ブルーレイディスクで何とか、そう思ったが、どうしても途中でエラーが出てしまう。仕方がないのでデータ用のディスクを購入してトライしてみたが、同じようにどうしても途中でエラーになってしまう。

ヤマダではない家電量販店に行って外付けハードディスクを購入しようとしたら、そういう使い方だとデータがすべて消えてしまう、と訳の分からないことを言われ、パソコン専門ショップに行き、データ引っ越しでの最良方法とその他について聞いてみたが、意外と知らない。

結局、信頼性からUSBメモリーを使う事を考えて、大きめの容量のもの購入。ところが、さて、キャップがついているもの、どっちが差し入れ口なのか、そういう事さえもわからないなか、購入して、その時点で初めて新しいパソコンを開封し、そこに古いパソコンがそのままで使える引っ越しソフトがあることを知った。全く我ながら無駄な時間を過ごした、と思った。

ところが、残念ながらUSBメモリーは問題なかったのだが、どうしても新しいパソコンの引っ越しソフトが途中で止まってしまう。結局、引っ越しソフトなるもの、以前のものも新しいものも全く意味をなさなかった。

そういうさなか、カーナビのメーカーから無償期限が一か月後に終わるという通知が届いたので、反論は別として、慌てて新しいパソコンで更新データを受領できるようにセッティングの必要がある。ところが、新しいパソコンのメールが使えない。

インターネットに接続すると、パソコンのほうでは勝手にメーカーに接続するようになっているらしいが、アウトルックの設定のために必要なキーをメールで送信するというメッセージ。

言いたくないが、古いパソコンの状態を変えずに、新しいパソコンを起動させて引っ越しソフトで古いパソコンから新しいパソコンに設定を持っていくというのが引っ越しソフトなので、古いパソコンをインターネットにつなぐわけにはいかない。

そうすると、前述のようなパソコンの立ち上げや設定では、立ち往生してしまうのだ。ウィンドウズメールもおかしな反応をしたし、まあ、ふだん、使う人としてパソコンを使用している人間には、腹立たしい限りである。

さて、どうしょうもないので奥の手というか、パソコンメーカーも想定しているかもしれない、古いパソコンを使って新しいパソコンのアウトルック設定のキーを入手したはいいが、あらゆることが使いにくい。

たぶん、スマホ仕様なのだろう。だろう、というのは私がスマホを持っていないからだが。パソコンを主に使うのに、さらにスマホを持って無駄な金と時間を使う気にはなれないのだが、メニューから何からパソコンの構造を想定して使用していた私にはスマホ仕様は全く使いにくく、以前ならば簡単にソネブロにたどり着くのが今は一時間かかってしまう。

アーキテクトの部分から明確な意思が見えないのだが、それとも皆さんにはこれが使いやすいのだろうか。いや、私自身がもう過去の人なのだろうか。

取り返しのつかない事 [所感]

パソコン買い替えのトラブルで寝る間もなくなるほどの多忙さが2か月以上続いています。ブログへの投稿もできませんでしたが、その顛末は、また別の機会に。

さて、中学校の恩師が喜寿を迎えるということで、私自身は遠地にいて老母の介護もあり、駆け付けられないので、たまたま連絡のついた、かつてのクラスメイトであった女性に、その段取りを依頼したのだが、恩師に確認したところ、恩師を含めて4人での食事会ということになったらしい。

その恩師にとっては私たちは最初の担当した卒業生ということだったのだが、初めてだから色々不手際があったというよりは、本当に熱心に接触してくれた他のクラスにも人気のあった教師ということだった。

私の級友たちも足しげくその恩師の家には遊びに行っていたようであり、普通に考えれば喜寿祝ということでもあれば、数十人集まっても不思議ではない、そういうクラスであったはずなのだが。

では、なぜ、こういうことになってしまったのか?
これは卒業時の最後のホームルームで、クラス会の幹事を決めるときに、その当時、流行っていた、いわゆるノリで、ふつうなら、この人はその任ではないだろう、そういう人物に決めるという、それを、この時にやってしまったのだ。

もちろん、その恩師も同席はしていたが、そういうやり方は駄目だ、と介入する性質のものでもないので、私一人がクラス会幹事とは、そういうノリで決めるものではない、という趣旨のこと等、反対意見を述べて、ちゃんと決めるようクラスの全員を説得したが、もう卒業、ということもあり、浮ついていたクラスメイトも多く、多数が、ノリで名を挙げた人物で異議なし、そう囃し立てると、それが決となり、何もしない幹事が決まってしまった。

結局、当時のクラスメイトの連絡名簿さえ一度も作成されぬまま、皆が雨散霧消という形でごく少数、連絡を取り合っていた人物だけが個々に、何かあると集まる、その程度になってしまっている。

もう今更、音信不通のクラスメイトを探し当てるのは、特に、尋ねられた部署のほうが、個人情報保護法などを持ち出して対応するのを嫌がる時代になっては、不可能といってよいかと思う。

今日を想像できたというのも、50人近い人数の中で私だけだったというのも寂しいものだが、想像力が欠如していても、今の世の中は民主主義という多数決で決まってしまう時代、こういう内容のものだけならばいいかもしれないが、私たちを取り巻く環境の中には、将来に禍根を残しそうなことが、浅慮の人物たちによって進められていること、皆さんはどう感じているだろうか。
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