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スポーツ馬鹿と錦の御旗 [所感]

タイトルを読むと、なんと過激な、そう思われる向きが大半かもしれない。

まあ、そのくらいの過激な言葉を使わないと、声が関係者に届かないかもしれないので書いたのだが、あまり読者のいない当ブログでは所詮遠吠えに過ぎないか。

オリンピック会場の整備費が当初予算の7000億余から3兆円を超すという試算で小池都知事の見直しの動きに対して組織委会長の森喜朗元首相やボート競技の日本組織の代表あるいは国際競技会の代表からそれを抑える発言があった。

以前にも書いたが、日本のスポーツ選手がなかなか政治的発言をしない、この事に私は違和感があるのだが、スポーツ選手と言っても人間である事、暮らしているのは一般社会の中、そして毎日、買い物はするだろうし、食事もする、そういう事を考えると自分たちの暮らしに影響する政治に無関心、そういうわけにはいかないはずだと思うのだが。

それともそういう事を考える脳の部位までが筋肉に変わってしまった、いわゆる筋肉馬鹿、そういう事なのか。いやいや、そうではないだろう、そう思う。スポーツ選手が政治的発言ができないようなそういう環境がある、そう見た方がよいのだろう。

先のリオ・オリンピックの壮行会で森元首相が選手の中から“君が代”を力強く歌う声が聞こえてこなかった、という趣旨の苦言が呈されたが、スポーツ評論家の玉木氏が君が代は皆が大声で斉唱するような歌い方には似合わない国歌だと森元首相の発言に逆に苦言を呈していた。

私も同感だ。残念な事に、この発言に影響された日本選手が表彰台で君が代を歌っていたが、せっかくの金メダルを台無しにした感があった。対してアメリカの水泳選手のフェルプスは自国国歌を歌っていなかった。しかし、だからと国歌を軽んじていたわけではなく国旗を見つめ胸に手を当てて国歌をじっと聞いていたが、今まで、日本選手のほとんどもそうであったし、その方が自然だと思うのだが、こういうもの、どうこうしろ、そのように強制するものではないだろう。

そういう事に影響するようなことを組織委員会の会長が言うべきではない。それこそアスリートファーストの精神をひっくり返して役員が先行するようなスポーツ界、そういう事になるのではないだろうか。だから選手たちが本音を語りにくい土壌が生まれる素地が日本のスポーツ界にはある、そういう事だろう。
フェルプスが歌っていなかったから、国旗や国歌を軽んじていたなどと批判する人物など一人もいないと思う。たった一人の人物が、例えば、オリンピックの組織委の会長、そういう立場の人物が言ったから、それで右に倣え? おかしな話だ。元スポーツ選手であったかもしれないが、現役ではない、スポーツの精神を本当に理解しているとは思えない人物が発言したら、右へ倣え? スポーツはそういうものではない事、逆に示してもいいと思う。

元首相ならば現実的なマネージメントという観点も組織委員会のトップとして、しかも都から委託された組織のトップであるならなおさらであるはずだ。であるのに、今更、という言い方で予算の精査どころか、見直しの動きにブレーキをかける、おかしな話だ。

こういう事など見ると、やはり森喜朗という人物、密室でしか首相になれなかった、その程度の資質の男、そう見られても仕方がない。

スポーツ選手だから一般常識もない、そのように軽んじられる、そういう事があってはならない。だが、選手の側もそういう環境下にあるからと、何も発言しなければ、相変わらずの筋肉馬鹿、そういう見方しかされない事も確かだろう。
リオ・オリンピック壮行会での森発言は逆にスポーツ選手が人並みの政治的発言をしていけるいい機会だったと思うのだが、黙ってそれに従ってしまっているさまは、自分たちで首を絞めた感がある。

私がここのブログで現首相の安倍や元首相の森を批判したから国賊であるとか日本という国家を軽んじているなどと短絡的に見る人はほとんどいないだろう。私はおかしなことに対しておかしい、そう書いているだけであり、日本を取り巻く韓国中国、北朝鮮など、日本よりもおかしい国はいや、国民も含めてだが、より厳しく批判している。
日本国民とか何とかよりも先にまず、人間としてどうか、そういう事の方が気になるのであり、森元首相なども日本人として云々より先に、人間としてどうか、そういう視点で見てしまうからである。

小池都知事がで、東京オリンピック予算の見直しに着手した事への批判の錦の御旗が、東京オリンピックを成功させよう、その言葉であり、今までどのように決めていたかという透明性を欠いた事への反省はしないで、見直しとか批判という事に対しては、錦の御旗に対して、いかにもそれを失敗させようとしているかのような言い方をするのだが、そのような過剰な出費で、本当に都民が祝える、あるいは喜ぶオリンピックになるだろうか。

組織委員会なども我々から見ると立派過ぎると思うビルに入っているらしいが、オリンピックの御旗の元ならば何でも通る、などという時代ではない事、組織委員会こそ肝に銘じてほしいものだ。

完全予約制 [日記]

後期高齢者医療費の特別割引が廃止されるという。医療費の増大は医療を受ける本人だけでなくそれを支える社会保険にとっても重大なものだと思う。
 
 さて、そういう社会背景がある中、車の6ヵ月点検を受けるために販売店のサービスに持っていく2日前に、久しぶりの洗車を行った。久しぶりという事もあって、終わってみると3時間も掛かっていた。

 さて、その翌日、思ったよりも暑かったのだが、水分を補給しなければと思いつつ、結果として水分補給が少なかったのだろう、翌日の朝食後、車をディーラーに持ち込めるように準備をしていて、下腹部に鈍痛を覚えだした。

 これはまずい、そう思ったが、後の祭り。何度も経験したことのある激痛へと変化していったが、車の6ヵ月点検の事もあり、何とか落ち着くところに、そう思って色々と体を動かしてみたが、激痛からは逃れられない。

 結局、若干気温が低い中、油汗と吐き気と下痢気味への対処で、パンツ一丁になってタオルを巻いて頑張ったがもういけない。あちこち体の不調があっても寿命と、達観して医者にかかる気がない事、自ら縛りとしていたのだが、さすがに、この激痛に耐えられずに、以前通院していた医者に、タクシーを呼んで、駆け付けた。

 ところが、である。「当院は完全予約制なので予約がないと受診できません」受付でこう言われた。以前掛かっていた事や、他の医者でなくわざわざそこに来た、そういう事を伝えて割り込む形で2時間後のところに割り込む形で入れてもらったが、痛さには波がある。

 待合室で待っている間に、どうにも耐えられない痛みに襲われて、状況を確認に来た看護師に改めて、早めの受診を頼んだ。「楽になれる姿勢でお待ちください」そう言われて待合室の長椅子に横になった途端に、すっと憑き物が取れたような感覚で楽になり、しばらくして名前を呼ばれて診察してもらったが‥。

「うちは完全予約制なんだから、痛いときにだけ来るな。(カルテを)見れば2008年に来ているが定期的に診察を受けていればこういう事にならない。完全予約制なんだから、自分の都合だけで受診に来るな」とまあ、こういう感じできついことを医師に言われた。

 その時には痛みが治まっていたので「じゃあ、けっこうです」そう言って帰りたかったが、大人げないし、たまたま痛みが和らいでいるだけであって、薬は必須なので処方箋をもらわない事には高いタクシー代を使って行った意味がない。
使用したタクシーの運ちゃん、そして点検をキャンセルしたディーラーの担当者も何度も経験したという腎臓結石。彼らは、注意事項を守って、特に通院しているわけではなく、何度か経験しているという事は、痛くなったら通院する、そういうレベルである。

医院での医師に言われた言葉を老母に話したら、憤慨して早速、他の身内に話して別の医師を探してきた。患者の立場の人間の話を集約すれば、皆、この腎臓結石で定期的に診察を受けている人間などいない、そういう事だったのだが‥。

さて、この病気、医療費の肥大化が問題になっている中で、毎月通って、診察を受けて、薬を処方してもらわないといけない病気なのだろうか。以前、通院していた時の事を思い出したが、検査と称するものを含めて診察と薬代で一回に1万円を軽く越していた。

もちろん、まだ年金などもらえる年齢ではなく母親の介護で仕事も辞めて収入がない中、月一回では済まない医療費が一回1万円を越せば暮らしていけない。たまたま、自分のマンションの内装工事の準備のために三か月以上通院が無理になったために、そのまま通院しなくなったのだが、それから8年、通院しなくても良かった、という結果が残っている。

 他の病気まで否定する気はないが、少なくとも腎臓結石で完全予約制なるシステムに巻き込まれて、毎月通院の義務を課される意味は何だろうか。私の勘繰りは固定客として定常的な収入源の確保がこの完全予約制の意味ではないだろうか、と思う。しかし、社会保険の将来を考えればいや将来ではなく今だって困っているのにこれでいいのだろうか。

 来週の水曜日に急に胃が痛くなりますからその前に予約を取りたいのですが、などというような都合のよい病気ばかりではあるまい。医は算術なり、そう思っている。評判の悪い医師だが、医者としての腕がこちらのニーズを満たせばいい、そういう思いで以前も通っていたが、今回の出来事、あまりいい気はしない。カルテを見れば明らかに私の方が年長である事、医師にもわかっていてさえも、口の利き方が悪かったが、年の話をしなくても対応が悪い、それが母親が感じた医師の素養であった。

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