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李下に冠を正さず [政治]

森友学園問題、国民の多くは安倍晋三の説明や政府・与党の態度に納得していないらしいが、こんなもの、本来ならばさっさと処理して国民がより求めるものの審議に時間を回せばいいもの、安倍晋三が「自身や夫人が関わっていたら衆議院議員も首相も辞める」そのような趣旨の大見得を切った事が、安倍晋三の保身優先で事実究明どころか隠蔽行動に与党が終始して問題を長引かせている。

日本や中国にとどまらず、つまり洋の東西を問わず、色々な格言や諺があり、それらは我々の行動を律したり、おかしな行動はおかしな結果をもたらす事を警告している。

掲題の言葉も中学や高校での漢文を習った時に、だいたい一緒に習う言葉だと思う。
疑われる行動をとるな、という事だが、用いられている言葉を見れば、庶民にこそ当てはまるような内容だが、しかし、多くは役人にこそ、発せられている警告と取るべきである。

李を取るように見えたって、取っていなければ注意されることも罰せられる事もないはずであり、それを疑って、注意したり罰することは、それをした側にこそ問題がある、そういう事ではないだろうか。これが封建時代と法治による近代との差だと思う。

首相及び首相夫人が肩入れしている森友学園、そのように読んだ財務省官僚たちの忖度、これが問題だとしているのだから、その事実の有無を究明し、その事実があれば、そういうことをなくす、役人への縛りを入れた法律を作ればいいだけ。ああだこうだ言っても、法律的に責任を問えず、道義的にまずい、そういう事であれば、そういう法案を作ることで与野党で協力していけばいいだけ。

法で罰せられないからいいんだ、などと思ってはいけない。何故ならば法とは人間が作るものだから、完璧ではない。つまり本来あるべき姿になっていないものがあれば、あるべき姿にする、そうあるべき。

ここで問題なのは、国民の財産とも言うべき国有地の払い下げが、今回は、結果としてごみ処理等の費用問題と絡めば、決して国庫としてマイナスにはなっていないかもしれないが、そうでないケースもあるのだから、当事者の評価など疑われるような処理のみで行ってはいけない、そういう事を立法化するべき、という事だろうか。

官僚が国民の財産を勝手に減価して一部の人間への便宜を図るべきではない、そういう事だろう。しっかり罰則付きで立法するべきである。
時の政府の顔色を窺い、国民の生命・財産をないがしろにする、こういう事が官僚の中で日常的に行われたり体質として蔓延している、これが問題というか重大な問題という事なのだ。

国民への奉仕が目的の公務員にして国民よりも政府や閣僚への奉仕を優先する事があってはならないはずなのだが、役人にそういう事があればそれこそ政権を預かっている政府・与党の重大な責任問題であり、即刻、政権の座から降りるべき、そういうものだ。

国民主権、主権在民と言った方がいいだろうか、この事を理解していない官僚の存在を許すことが政府の怠慢である事、もっと政府の人間が理解するべきなのだが、どうもこの国の議員や役人たちは行政とか国の成り立ちとか税金とか、そういう事についてあまりにも鈍感すぎる。

続、違和感 [日記]

最近、テレビドラマ、と言っても推理ものだが、そういうものを見ていて感じるもの、いわゆる違和感だが、皆さん感じていないだろうか。

それは、”御遺体”という言葉なのだが、事件などが起きて刑事たちが現場に駆け付けた時に遺体に手を合わせる場面と同時に「御遺体」という言葉が発せられる。また捜査会議の中でも「御遺体」と発せられるのだが、いつからこういう言葉に切り替わったのだろうか。

確か、以前は単に”遺体”としか呼んでいなかったと思うのだが、いや”仏(ほとけ)さん”だったか。
私の言いたいことは”遺体”と呼べ、という事ではない。躯(むくろ)という言い方もあったりで、”御”なるものをつけてこなっかたのが、いきなり”御”が付きだして、これも時代の趨勢なのだろうか。命を大事にする、その先にあるものが”御遺体”なのだろうけれども何か違和感がある。

”御遺体”は葬儀の時の葬儀関係者でもなければ使わなかった言葉だと思うが、昨年暮れ辺りから、鼻につく言葉として感じ出した。

前述のように悪い言葉ではないのに、何故、違和感を感じるのかと言えば、それは警察という、どう見たって人命や人権を大事にしているとは思えない連中が使う言葉としてふさわしくないからなのだ。

現実に使っているから、テレビドラマでも使いだした、そういう事なのだろうか? しかし、いくら徹底しても、警察官の間で、こういうもの、速やかに普及するとも思えないのだが。

警察という組織、無実の人間を平気で罪に落としていてさえ、その有効な改善策を講じるわけでもないし、だいたい悪徳警官が多すぎることを見れば、慇懃無礼につながるような感覚でしかテレビドラマも見られないのは当然だと思う。

さて、同じような感じで受け止められる言葉が、”あざいながまさ”である。
以前にも書いたと思うが、NHKがある日突然、浅井長政の呼称を”あさい”から”あざい”に変えたのもNHKらしい短絡的なものの見方としか思えない。

農産物は”のうさんぶつ”、農作物は”のうさくもつ”、これがNHKを始めとするテレビ放送局の長く続いた読み方だったと思うが、長く頑張っていた高齢のNHKアナウンサーもとうとう時代を受け入れて”のうさくぶつ”そう言いだした。

であるのに、大河ドラマの重さであろうか、時代考証で浅井長政の所領の地名で”あざい”と読むところがある、そういう理由で”あざい”という呼称が浅井長政に対してもつけられてしまった。それまで、多くの俳優、役者という人たちが使ってきたから、というわけではないのにである。

ところが戦国ものの時代劇は昔からあるので、古いものを見ていると”あさいながまさ”である。
”かすかべ”のように同じ呼称でも春日部とか粕壁とか書いたりする例(時代で変わったらしい)もあったり、一つの理由で変えるべきなのか、疑問に思うのだ。

同じNHKの放送で用語について「全く…だいじょうぶ」そのような言葉を肯定的に放送したことがあった。江戸の先人の手紙を例に挙げたわけですが、重複を”ちょうふく”と読まず”じゅうふく”と読む人が正しいかと言えば、間違い、そのように私は学校で習ったのに、今や”ちょうふく”と読む人の方が稀有です。嘘も大勢が言えば真実になる、その典型でしょうか。

間違った言葉を使う人はいつの時代にも大勢いるわけですが、たまたま、その例を引っ張り出して、間違いではないというのも乱暴ではないかと。”全く”という言葉は否定の言葉でしめくくられるもの、そのあとに肯定の言葉を使い、否定の言葉を省力してしまう、そういう全体像を語らずに、NHKは「使っている人がいるからおかしくない」、そう言ったのですが、これも違和感ありです。

全く、(どうしようもない)何を考えているんだろう。この括弧で括った部分が良く省略されるわけですが、いずれ、正論が消えてしまうでしょうか。

あざいは地名であって、人名で使われたという話はないのに、その検証の話は出てきません。人名と地名で異なることは例としてあるのに、なぜそこまで検証しないで決めつけてしまったのか、不思議でしょうがありません。”あさい”で習ってきた人間としては、これを変えるにはこのような拙速でなく、もっとしっかりした根拠のある話で変えてほしいと思いますが、こういうものも力(権力という意味です)のある学者が主張すると、変わってしまうんですかねえ。これが世の中でしょうか、しかし、違和感ありますねえ。

「そこの川は、あざいから歩いて渡れるよ」いやいや、「そこの川はうざいから歩いて渡れるべな」いやはや、なんのこっちゃ。

皆さんにお願いしたいこと! [政治]

また、ブログ更新がままならない生活に戻ることになりそうですが、皆さんにお願いしたい事があります。

それは、国民に縛りを入れるような憲法に改悪させない活動をしてほしい事です。
安倍晋三が口に出した年限は2020年です。しかし、その前に矢継ぎ早に手を打ってくるのは当然でしょう、

安倍晋三は私よりも下の世代ですが、若い世代に安倍晋三のようなファッショが蔓延する事、信じられません。

我々世代は、70年安保で疲弊したリベラリズムや学生運動の反動で、政治的発言を全く嫌い、自分の色を出さない、そういう人物が大勢でした。下手な口をきいて、権力を握る人間に睨まれたくない、そういう事でしょうか。

しかし、そういう事が決していい結果に繋がらないのは、今の我々を取り巻く法律を見れば明らかではないでしょうか。
前のブログでも書いた通り、ひとたび警察沙汰になると、彼らは決して自分たちの間違いを認めようとせず、いや、検察の方がもっとひどいでしょうか。

厚労省の局長も訴追事件では、決め手に欠けた事案であるにもかかわらず長期の拘束の挙句に、証拠のねつ造にまで手を染めて、この時は、内部告発により担当主任検事が刑務所に入る事で、最終的にはうやむやになってしまいましたが、この体質、一朝一夕で変わらないのは、同時進行していた私の事案など見直しの欠片もなかったという事で、明らかです。

多くの事案について、検察はあり得ない事を根拠に訴追しています。そして、こういうことが今後激しくなるどころか、罪に落ちる人の数も増え、そして重罰化する、そういう事なのです。

誰が彼らの活動資金や給料を払っているのですか?
国民ですよ。その国民に対して、恫喝・威嚇他、何でもございで、平気で嘘を言って、彼らに有利な調書を作り上げてしまう、これが戦前の治安維持法だったわけですが、やり方その他、全く私の事案と変わりません。

私の事案でなくとも沖縄の辺野古問題で抗議活動をしていたリーダーが逮捕されて、信じられない長期の拘束されましたね。この拘束誰がやるのでしょうか。いかにも警察とか検察のようですが、実は裁判所です。裁判所の拘束命令がなければ検察も警察も拘束できません。

もっともその理由は検察があれやこれや嘘満載で裁判所に吹き込むのですが、抗議活動をしている人物を拘束したからと、世の中が大きく乱れるという事などありません。証拠隠滅などもありません。でも見せしめにこういう事、検察も裁判所もやるんです。

2000年代に入った裁判でさえ、検察・裁判所はこういうことをしているのですから、安倍晋三の改憲という名のおかしな憲法制定に手を貸せば、これからの日本がより官僚の天下になり、目先の利益にさとい人物の社会になってしまう。そしてこの社会には主権在民などありません。

安倍晋三はロシアでの記者会見の時に、人権などという言葉を使いましたが、私は耳を疑いました。一番人権を制限する法律を立て続けに通してきた人物が人権などという言葉を使ったのですが、それは、武力行使の名目として、人権他の民主主義社会の必須であるものを守るために、武力行使につながる動きを正当化する、そういう事です。

役人から権力を取り上げる法律の一つでも作ってみろ、私はそう言いたい。国民に主権があるのに、そうでないと感じる国家であればこそ、そういうことを積み上げて、初めて信頼を得るのだと思うが、安倍晋三はそういう手続きをすべて飛ばしている。

そりゃ、安倍晋三にはそういう気持ちなどないからで、岸信介の復権がなればいい、それだけですよ。
彼の、政治家としてやってきたことを見れば、政治を私的目的に使っている安倍晋三を総裁として担いでいる自民党のレベルの低さがよくわかろうというものです。

皆さん、安倍晋三と心中しますか? 私は御免です。

そもそも [国際]

ゴールデンウィーク、とは言っても出かけるところもない私は、ずっとさぼっていたブログ更新をせっせと行っている。ゴールデンウィークが終わればまた、正義の闘いを優先する、その事に時間を回さなけrばならないので、ブログ更新も、ままならないかもしれない。

さて、北朝鮮問題、あるいは台湾を悩ませている一つの中国問題。

皆さん、困ったもんだ、そう思われているのではないかと思う。
尖閣諸島や北方領土の問題も絡めば、これに大きく関与するロシアとか中国とか、これらの国が困ったもんだ、そういう対象として見る形になるのではないだろうか。

私も中国とかロシアという国は眉に唾をつけてみる国である、そう思っている。日本としては終戦、そのように位置付けた8月15日以降に突如、宣戦布告して進軍してきた北方領土を含むその周辺の地域を占領して回った旧ソ連軍、そして武装解除した日本軍、というそれまで庇護してくれていた軍隊のなくなった武力の空白地域になった台湾に強引に入り込んで力の支配をした大陸人である中国国民党政府。

いや、中国に関しては国民党政府だけでなく、新疆ウィグル地区、内モンゴルそしてチベットを武力によって強引に支配下に置いた中国共産党政府。

本来共産党という人民による政党及び政府を作ったはずの旧ソ連や中華人民共和国。しかし、実態は共産党幹部のための人民及び国家支配であり、決して国民の平和など政権幹部の頭の片隅にさえなかっただろうと思う。

旧ソ連はゴルバチョフのような、時代の趨勢を見ることのできる人物が出てきて、個人の勇気で一党支配という馬鹿な支配体制を崩壊させたが、今のロシアを見れば、彼のような人物は稀有であり、相変わらず信用のできない国家だと見える。

だいたい戦争状態の中でさえも捕虜を苦役に使用したらその責任を問われる、そういう事であるのに、旧ソ連そしてその後継国家のロシアは、交戦を解除した旧日本兵の、シベリア抑留で粗末な食事と粗末な衣服の中、凍土の中の過酷な作業で多くの日本人を犠牲にしたという、本来であれば国際司司法裁判所に持ち込んで、その人道的犯罪について訴追すべきもの、仮に訴追されなくても、その事への謝罪の一つもない。

こういうのを見ると日本の戦前もだが、日本の近隣諸国だって、とんでもない国家が揃っていた、そういう事だろうか。ただ、残念ながらこれらの国家と日本とには彼我の差がある。それは彼らが戦勝国となり、日本は敗戦国となった、そういう事である。

だが、しかし、前述の国際紛争や領土問題のすべては、そもそも戦前の日本が外交や軍事の行使の仕方を間違えて、無責任な行動を重ねた結果だという事を忘れてはならない。戦争の仕方あるいは戦争をすることについての責任の取り方と言っていいだろうか。

北朝鮮も韓国も、そして台湾も日本の統治下にあった国であり、彼らを二等国民などとしていた国家としては、今の状況はあまりに日本の無責任さを表すものとして、私は日本国民として恥ずかしい気持ちがある。

もっとも沖縄問題でさえ、まともに解決できないのだから、朝鮮や台湾に対して責任ある統治など敗戦時の政府には考えも及ばなかっただろうと思う。腹立たしいのはその時の政府に入っていた岸信介のような人物が戦後に、押し付けではない、我々の憲法を制定しようなどとふざけた事を言わせた自民党が相変わらず政権に居座っていることだ。

今の、朝鮮半島問題や、台湾の中国との問題は日本の浅はかな戦争によってもたらされたものであり、その事について日本国内では日本の戦争や戦前の体制に対しての総括が行われていないのと同様、全く頬被りで、責任の一端さえも感じていないかのように見える。

武力行使とは、だれが責任を持つのか、そういうことを明確にして開戦だけでなく終戦の仕方までよくよく勉強して、その上で行わなければならないのに、今の日本は相変わらず、泥縄でしかない。だから選挙という洗礼を受けて大臣になった国会議員よりも官僚の言い分が優先するような、とてもじゃないが文民統制のとれた政府とはいいがたい実態が日本国を支配しているのだ。

あれこれ話を飛ばしたので、内容にインパクトがなくなってしまったが、そもそも朝鮮問題や台湾など極東地域の戦争状態は、日本という無責任国家によって生み出されたものだという事、我々は知るべきであり、今後、二度とこういうことに繋がる武力行使をしてはならない、そういう事、改憲して軍事力行使を簡単にできるようにしようとしている自民党議員たちは、どれだけ留意しているだろうか。

時代錯誤の学校教師並みの政府とそれを感じない国民 [政治]

少しばかり長いタイトルになってしまったが、タイトルから言わんとする事、感じ取れただろうか。

皆さんは、学校教育を受けていた時、どのような生徒だったでしょうか。

私など、集団教育など小学校入学で初めて、そういう小学校児童だったこともあって、母親が、特殊学級(遺伝、後天的病気、怪我等で授業内容についていけない児童をそのようなクラスに入れていたという、当時はそのような名称だった)に入れてくれ、そのように学校とか担任からいつ言われるだろうか、と心配する児童だった。

今で言う学級崩壊のようなクラスだったのだが、そういう事、母親には通じないし、形として見えるのは、宿題は忘れる、持参すべき学用品は把握できていない、何だかいつの間にか立たされていたらしい(私自身にはそういう記憶がないが、近所の同学年の人物が、そのように言っていたらしい)。

つまり学校に反発したり抵抗したりしていたわけではないが、結果としてクラス担任の言う通りになっていない児童、そういう事だったのだが、しかし、たった一ヶ月足らずの在学期間で、上記のような恐れを母親が持った、その学校からゴールデンウィーク前に転校した学校では、ごく普通の児童として通学できるようになった。

いや、普通の児童どころか、担任からすると、おとなしく学業も優秀な扱いやすい児童、そういう位置づけだっただろうか。まだ、自身の事さえ分かっていないのだから私には自我もなかった、そういうものだと思うのだが、そういう私が変わったわけではなく、やはり学校とか教師そのものに差があったのだろうと思う。

当時の一クラスの生徒数はかなりのものだったが、最初の学校のクラスは、その典型だったのだろうと思う。だから一番後ろの席にいた私には担任が何を言っているのか聞き取れないどころか、担任と私の間にいる児童たちの全く秩序のない騒ぎしか記憶に残っていなかったのも、当然だと思う。

そういう意味では、ある程度の規律は学校内にあってしかるべき、それは私も賛成する。
だが、その転校した学校で、上級学年に進級した私を待っていたのは、担任教師からの毎日のようなバッシングだった。

その学校で、同じ学年で東大に進んだ児童が少なくとも二人はいたのだが、そういう彼らよりも成績も知能テストも上だった私が、学校や担任を困らせる型破りの児童だったのか?

否。指名された算数の問題への回答が誤答とされ(小学校入学以来、算数で間違ったことは一度もなかった)、確認の為に帰宅後に検証して、翌日、間違えやすいところを間違えたのは、むしろ担任が利用していたアンチョコの方で、このように検算すれば正解が私の回答したものになる、そう指摘した、その事が、毎日、毎授業、算数を除いて私を立たせるためだけの授業になってしまった、こういう経験をすると、授業とは何なのだろうか、とか学校とは何なのだろうか、そのように考えてしまう。

その後、転校をしたりしてから初めて中学校というところで生徒手帳なるものを与えられた。
ここで、学校とか教師とかいう人種のバカさ加減というか、詭弁を弄したり、ずるさに気づくのだが、皆さんは、なんとも思わずに毎日、通学したり学校教育を受けていたのだろうか。

学校の校則なるものは、生徒のためではなく、生徒を管理する学校とか教師が仕事としてやりやすくするためのものであり、決して生徒の為にと作られたものではない、これが当時の私の結論だった。

現に、街を歩いていたりあるいは成人映画上映館の近辺を生徒が歩いていたり、いや、入ったり、そういうことをチェックしやすいようにと、校則では、外出は学生服着用で頭は坊主刈り。生徒の事を思うならば何故、頭に髪の毛があるのか、そういう事から頭を保護するための毛髪をわざわざ短くしろなどというのもおかしな話、とか校則の内容に教師自身が疑問を抱いてもおかしくないのだが、生徒のそういう反論に対して、教師の指示に従わない反抗的な生徒、そういう事になってしまうのだろうか。

中学時代は、突如として学校から指示してきた坊主刈りに反抗して、私は普通に坊ちゃん刈りにしていた。教師の受けは悪かったが、年齢相応の生き方をしていた私としては誰に恥じる事もないと、卒業まで、それで通した。

ところがあまり裕福でないわが家庭では公立高校に進学せざるを得ず、さすがに、高校は、入学できない恐れさえあったので、校則に従ったが、高校教師のバカさ加減に呆れた私は今度は丸坊主の頭で学生服を着て、成人映画館などに入ったものだ。

どこをどう見たって義務教育どころか高校の校則でさえも生徒の事を主眼に作られた校則ではない、そんな事が高校生どころか中学生でさえわかる、そういうもの、自律とか自立とか言っている教師が肯定していることが不思議だったが、実は日教組などと革新あるいはリベラルと言った方がいいだろうか、そのシンボルのような教師が実は、ガリガリの保守だったのだから、ほんとに笑えてしまう。

まあ、今は生徒会とか生徒に校則の内容を任せている学校も結構あるらしいが、上記のような学校を経てきた私には、生徒をバカにしたかのような思考停止の学校教育あるいは校則には本当に反吐が出るのだが、そういうことをおかしいとも思わずに学校を卒業してきたおバカが、今、またおかしなことをやっている。

いや、法律の一つ一つについて言っているわけではない。
大きなお世話、そう思える法律を政府や役人が次々と作っているからだ。

一挙手一投足についてがんじがらめで、皆さんは楽しく生きていると思っているのだろうか。

右足を上げたら、次はそれを前方に出して次は着地して、それからでないと左足を上にあげてはだめだとか、歩き方まで指示される生活のどこが自立した個人であるのか、人権が尊重された社会だとか民主主義社会だとか言えるのだろうか。

何かするたびに法に触れていないか確認しなければ何もできないのでは、それこそ、全体主義国家とか警察国家であって民主主義国家とは言わない。縛りを入れるならば、それは国民にではなく、憲法にのっとっているかどうかという法に対しての縛りあるいは、国民の希望に合っているかどうかという、立法、行政側に対してであり、法律の成案毎に国民への縛りが増えるという国民の税金で食っている役人が、それこそ自分たちが仕事をしやすくするためだけであり、国民のためなどとは全く違う、これが今の政府や役人の立法・行政に対しての考えである。

これって私が経験してきた、おかしな校長、教員たちによるおかしな学校の校則とどこが違うだろうか。つまり、今、色々と躍起になって国民に縛りを入れる法律を作り法案を通している連中は、生徒を下に見て自分たちが仕事をしやすくしていた学校管理者・教員と全く変わらないのだが、大人の皆さんが彼らに子供として扱われているのに、それに違和感を感じないというのはどうなのだろうか、そう思う。

頭の悪い奴が憲法改正などとは言わない事 [政治]

憲法記念日という事もあって、憲法改正の動きやそれに言及する首相以下の閣僚等のインタビューがテレビで流されていたが、改めて。

ブログなので詳細に記述できず、かなり端折るが、ここに書くこと、改めて、真剣に読んでほしい。

安倍晋三が憲法改正について祖父や父親の悲願であり、2020年という期限を切っての実現を目指すという趣旨の内容を述べていた。

しかし、この発想、おかしくないだろうか。クローンでもあるまいし、岸信介や安倍晋太郎が何故、憲法改正を唱えていたのか、あるいはその内容が今に通じるのか、そういうこと等、全く言及せずに自身の祖父や父親の名前を言う事は、国政を私物化している以外の何物でもない。

安倍晋太郎については首相になっていないので彼の憲法改正に関しての持論を知らないが、岸信介については、安倍本人が言うほどお世辞にも立派だとは思えない。確かに戦後政治の中に出てきているし、首相まで務めた、そういう事だろうが、戦後の大事な時期に民主主義を根付かせなかった自民党の一員、そういう位置づけでしかない。

結局、岸信介も他の自民党国会議員も国民主権どころか、国民など馬鹿だから、大事な情報は国民に流すな、そのための国会議員であり政治なのだ、とまあ戦前の体質をそのまま引きずった人間に過ぎない。

少し前のブログで民進党現幹事長を、厚顔無恥で国民の事を理解できていない人物という趣旨の内容で批判したが、岸信介も同様である。

三百万余の死者を出した第二次大戦へと日本を導いた内閣の一員。当時商工大臣として宣戦布告書に名を連ねた責任を感じたならば、ふつう、表に出ようとは思わない、それが人間ではないだろうかと思う。

よしんば百歩譲ったとして、もうあのような悲惨な状況に日本国民を陥らせてはならない、そのように国家のため、国民のため、そういう評価を受けた政治活動であったならば、戦勝国による裁判の結果、そのように戦犯の汚名を国民は日本人として心の中から消し去る、そういう事であったかもしれない。

しかし、国を割るような安保騒動を引き起こして大勢の若者を喪失感に陥らせたり、あるいはあちこちの公害とか社会のすべての悪の根源が日本国憲法に依存するという(今回の憲法記念日にも当時の岸信介のこの談話がテレビで流されていましたね)おおよそ、戦後政治を担った政治家としては、とても考えられない事なのだ。

考えてもわかる話で、近年二度ほど非自民党政権が発足したが、それ以外は戦後の混乱期を除いて戦後からほぼ一貫して自民党政権が続いている。その自分たちの行政責任を無視しての、社会のおかしなことが日本国憲法にある、そう岸信介は言っているのだ。

平和憲法と言われる今の日本国憲法があってさえ、世界的に見ても通常戦力で言えば世界屈指の戦力を持っている日本。とても平和憲法による為政の結果とは思えないのだが、憲法があってさえ、こういうことを自民党政治は行ってきたのだ。

いや、戦力を持つななどと言うのではない。法や行政に縛りがあってさえ、自民党政治は強引に自分たちの思う方に日本社会をもってきている。これに歯止めがなかったら、本当はもっととんでもない事になっていたのではないだろうか。

ポチである日本がご主人様の決めた憲法などちゃんちゃらおかしくて守ってられるか、というのを心の中だけにとどめられずに表に出す、そういう事だろうか。
しかし、当時でさえも日本がポチではなかったし、まして憲法にはアメリカによる指針などという事が入らずに、日本人の法学者たちが草案に携わって作られた、その事が近年より明らかになっているのに、何故、押し付けられた憲法などと、同盟国の親日家が聞いたら気を悪くするようなことを平気で政権政党の幹部が言うのか不思議でしょうがない。

岸信介に話を戻せば、第二次大戦に至った戦前の政治や社会の仕組みの検証あるいは何故、止まらなかったのか止められなかったのか、さらには開戦はしても、戦争を早期に終結させるシステムが何故なかったのか等軍人とはいえ徴兵による多くの国民を犠牲にした、そういうシステムの総括と再発させないシステムの構築を図らなければならないのに、岸信介はやっていない。

日本が何故、第二次大戦の総括をしていないかと言えば、戦後政治を担ってきたのが自民党であり、その自民党にとってあるいは政権に入った幹部の国会議員にとって第二次大戦の総括は自らに唾するもの、そういう事になるからだろう。

戦後も国会議員として活動する動機が、勇気と、国民の事を第一に考えて、反省の上でなっているならば、傲岸な政治は行われていなかったと思う。民主主義の醸成に力を尽くすどころか利権構造を作り続けた国会議員たちの末裔が今も権力を握っている事考えれば、とても彼らに改憲のイニシアチブなど取ってほしくはない、そう思うのではないだろうか。

だいたい、戦争の総括もしないで、日本国憲法の批判などするな、そういうところだが、憲法以前に戦前から持ち越された行政の組織、例えば旧内務省など相も変わらず国民を下に見る組織等の解体の方が急務だと思うのだが、何を急いで憲法改正などとやるのか。だからこそ、法や役人に縛りを入れないで国民に縛りを入れようとする法案が自民党政権下でてんこ盛りなのだ。

戦後の総括で思い出したが、戦勝国の裁判でなくとも日本を戦争に導いた宣戦布告書にサインした面々への日本国としての裁判は終わっていない。そういうことを知れば、岸信介の名など恥ずかしくて出せないだろうに、やっぱり政治家が厚顔無恥はこういうことを見てもわかるというもの。

憲法改正? 誰のため? [政治]

安倍晋三が、またとんでもないことを言い出した。
「憲法改正の機運が高まっている」などと。

え? 誰がそんな事言ってるの?
今、憲法改正しなければ、とんでもないことになる、そのように国民の中で言っている人、どこにいる?

時代は動いているし、北朝鮮のような日本に対して脅しのような事、それも日本という具体的国名まで上げるようなおかしな国家が現れるようなことになれば、日本が今のままで大丈夫だろうか、そう考える人は少なくないだろう。

そういうことを考えると、例えば、北朝鮮からミサイルが飛んできても、明確な反撃手段を持たない日本は、アメリカ頼みという事になるが、自立国家として、それでいいのだろうか、あるいは日本国民の本当の気持ちを具現化する形での反撃を米軍が行ってくれるだろうかとか、そういうところまでの保証は何もない。

ただただ、自衛のための軍備、そういう事でしか第二次大戦の反省からきた日本には、戦う形はない。しかし、敗戦直後とは世界の状況も変わっているし、すぐそばの朝鮮半島では休戦状態という構図まであり、その一方の当事者である北朝鮮が核装備まで進めた上に、その対象であるアメリカというものを、何故か、安倍晋三は、日本に対する重大な脅威であると、北朝鮮とアメリカの対峙する中に割って入って、北朝鮮の矢面に立つ事を敢えてしている。

え? これ何だ? そう思った御仁はたくさんいると思うが、国民の安全安心を図るべき首相があえて日本にミサイル攻撃を誘導し、その脅威があるから日本は米軍と一体になって行動しなければならない、などというのも、あまりに見え透いていないだろうか。

本当に、安倍晋三という人物、何をしたいのか、相変わらず見えてこない。

確かに、北朝鮮の問題は、喫緊の課題だし、核武装して日本人の思いを込めた核ミサイルを北朝鮮に打ち込む、そういう反撃体制も必要かとは思う。
また、常態化した尖閣周辺への中国の領海侵犯など、中国という国の脅威は年ごとに増すばかり。そういう極東情勢の中、日本の安全保障体制が今のままでいいとは思わない。

だが、法の整備にしろ憲法改正にしろ、それは国民の為にという事が根底になければならないし、そのためにも日本をどこにもっていこうとするのか、それをはっきりさせるのが政権政党の責任者の義務だとも思うのだが、「美しい日本」のどこに国民のためというものが存在するのか、安倍晋三自身が語っていないではないか。

戦後数十年から百年になろうという時代を経れば、変化の激しい時代に合致しないものが出てくる、それは仕方のない事で、憲法が改正されるべき、そういうものも出てくるかもしれない。

しかし、だからと一番信用できない人物のもとで、憲法改正などする気はない。それは安倍晋三が国民のための憲法改正などではなく、国家が国民の上に鎮座する形での憲法というものに変形させようという意図がありありだし、本来、法律に縛りを入れるべき憲法を、国民に縛りを入れるものへと変質させようと考えている事明白だからだ。

だいたい、憲法改正しなければならないものを、いい加減な「解釈」云々というもので実体を変えてきた自民党が国民の大多数の信頼を受けて憲法改正できるのだろうか。

安倍君、国民の為に憲法改正をしたいというなら、まずは君が国政から身を引く、それが最初のステップだと思うが、わかっているかな? いや、君のおつむではわからないかもな。

高速道路って誰の既得権? [政治]

偉そうに私を政府首班に、などと言っても私にどれだけの能力があるか、私の周囲の人たちだってわかっていない。まあ、かつての学校の恩師とか所属企業の上司とか、本当に一握りしかいないだろう。

そういう人たちだって、私の真の実力など知りもしないと思うが。では、その一端を、今日は、これからお話ししよう。

車で遠出する機会の少ない学生だったり、あるいは車とは縁のない低所得の社会人であった頃、高速道路の事、現実味がなかったが、それでも首都高の無料化などという話は、会社の仕事などで同僚の運転する車で首都高速を利用するときに語られていた。

高速(有料)道路の無料化は、建設時の投資が償却された時、そういう話で、首都高などは利用者も多く、早めの無料化が期待された。

ところが、ところがである。いつの間にか、首都高の無料化は、上り(あがり)を他の高速道路建設の原資とすることにいつの間にか変わっていってしまった。

郵政事業の国民が預けた金の行き所が高速道路など、無謀な投資を招いている、そういう話のもと小泉政権時代に郵政事業の民営化、高速道路公団の分割民営化が図られたが、そもそも、高速道路は初期投資が回収されたら無料化が筋ではなかったのか。

結局、筋論を忘れると、おかしな話が定着してそのまま当たり前になる傾向が日本は多い。これらほとんどが官僚の懐に利益誘導されるものなのだが、もちろん現役官僚という話ではなく、退任後の話である。

国民への利益還元、このために公務員は、代わりに、税金から報酬を受けとれるのだが、国民への利益還元をしないならば、国民の税金から給与を受け取る資格はないはずなのだ。であるのに、いつのまにか自分たちの為に税金を、動かす、そういう事にすり替わっている現実をもっと我々は知るべきだと思うのだが、そういう観点で、何故、猪瀬直樹が評価されたのか、私には全く分からないのだ。

欧米に行かれた人もたくさんいると思うが、例えばアメリカの高速道路。今、有料化の話もあるらしいが、一部、橋を除いて無料。

何故、アメリカは無料で高速道路が存在し、日本は有料道路ばかりなのか?
シンプルに道路自体を見てわかるのだが、日本の高速道路はオーバースペックなのだ。つまり必要以上に何物にも金をかけすぎている。

何故、そんな仕様になったりあれこれ装備されるのかと言えば、いわゆる利権の構図からだ。
あれが必要、これが必要と言えば、それぞれの供給業者との癒着、すなわち高額での取引を含めて建設業者にも担当者にもあるいは担当部局と言い換えた方がいいかもしれない、恩恵がある。

オリンピックの施設や国立競技場だって、精査しなければとんでもない金額になっていたし、いや、今だって本当はもっと安くできるもの、IOCのバカ会長、いやバッハだったか、その会長と東京オリンピックの組織委責任者との癒着構造で費用が高止まりしてしまった。

オリンピックの主催はマイナスだけでなくプラスもあるので表立って全面的非難をする人も少ないが、日本のように少子高齢化がこれから一段と進むと言われている国にとっては、高額の負債は今後厳しいものになる。

道路だって、必要なものは作ればいいと思う。だが、一方、こんなに金をかけているのだろうかと思うのが日本の高速道路であり、最近やっと、辺鄙なところを通る高速道路が分相応に簡素化しだしたが、アメリカの高速道路は、日本の高速道路と比べて、シンプルであり、これなら、日本の一級国道のように、一般予算で保守ができるのではないか、そう思う。つまり初期投資の回収後は、保守・維持費が必要だ、などと噓の名目をつけることもなく、無料にできるのだ。

ところが日本の主要高速道路は、その保守・維持の費用が高いからと、有料である事の意義を説明されているが、一級国道並では何故、悪かったのだろうか。その答えが前述のような利益誘導の構図を盛り込んだからなのだが、気前よく道路を作りすぎたために、一般道路(橋梁・橋脚も含む)の保守・維持費だけでさえ、現時点で数百兆円に及ぼうか、そういう時代が来るのに、国を守るという観念からは遠い、官僚のよこしまな気持ち。国をすでに滅ぼしかけている。

日本全体の経済活動を考えれば全ての国道を経済指標だけで考えてはよくない。だが、だからと遠く人里離れた地域までもが何故、割高の建設費を投じてまで作られなければならないのか。

誰だって人口密集地に道路を通せば渋滞で経済効率が悪くなるのはわかる。既存の一級国道はその成り立ちから渋滞からは逃れられない経路を辿っているのだが、アメリカの高速道路を見れば、そういう事への対処なども簡単に見えてくる。

圏央道路などはその概念の一つなのだが、ところが相変わらず華美な道路建設という根本的なところは変わっていない。高速道路という名の道路建設、やればやるほど誰かの既得権益が増して、瘦せる国家財政や庶民の懐とは別のところで、ほくそ笑んでいる連中がいる。

戦後何十年、多くの国会議員が渡米しているのに、そんな知恵の一つも出てこない現実が恐ろしい。
道路一つ取ったって、馬鹿じゃなかろか、そういう事をやっているのだから、他の事も推して知るべし。

国会議員というおバカさんたちに任せきりでは、国はよくならない。
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