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北風と太陽 [所感]

私は犬も猫も大好きである。

 残念ながら犬を飼う機会はとうとう訪れなかったが、我が家に犬がいなくても近所の犬など、昔は放し飼いの犬が多かったので、飼い主が知らないだけで、我が家に遊びに来て窓が閉まって入れば、勝手に開けようとしたり、まあ、犬の方でも私を友達、そう思っていたのかもしれない。

 ただ、こちらが好きでも相手が好きだとは限らない。小学生高学年や中学、高校生の頃、犬に嚙みつかれたことがある。決して、こちらが悪ふざけをしたわけではなく、すれ違いざまとか、向こうが勝手に噛みついてきたとか、そういう事なのだが。

 噛みつかれるというのは、トラウマになる、そういう事だろうか。犬が嫌いという人の話を聞くと、たいてい噛みつかれたことがある、そういう経験かららしい。私も犬の気性を知らずに、赤ん坊が生まれた、そういう話で、見に行こうという隣家の坊主に誘われて小学生の3年生頃だったか、すぐ近くの工場の敷地の中に入って行った途端に、いきなり母犬に吠え掛かられて、50メートルくらいだろうか、それこそ必死のダッシュで逃げた事があるが、たぶん、噛みつくという行為の中に犬なりの論理が働くのだろう。

 私も数回ほど噛みつかれているので、トラウマになってもおかしくはないのだが、大型犬には比較的好かれて、噛みつかれたのは小型の犬だったことから、噛みつかれても、むしろ飼い主が私の報復を恐れて犬を後ろに隠すようなことをした、そういう事も関係しているだろうか、トラウマはないようだ。

実際、ボクシングのロードワークで道路を走っていて、犬に追いかけられても、逆に犬をぶち殺そうという感じで、追いかけまわして飼い主が慌てて家の中に入れるという事もあったりで、まあ、拳一つで犬に対するトラウマはないのだが、一般の人はそういかないので、犬に関しては一般の人と接触する機会がある時は飼い主は、必要以上に気を付けるべきかと、そう思う。

近年は狂犬病の話も出てきているくらいだから、犬の飼い主はそれだけの責任がある、そういう事だろうか。

長い前振りになってしまったが、本題は猫の話である。我が家にも女王様然とした飼い猫がいるが、いや、雰囲気ではなく、自分が一番偉い、そう思っている節があるからだが、その飼い猫の話ではなく我が家の庭に来ては糞をしていく野良の話である。実は今日も、蚊の発生源になってはいけないと、草取りをしていて、猫の糞を踏んづけてしまった。つまり庭の一部ではなく、庭中、それこそ糞をしていないところがないのではないかと思うほど、糞をしていくのだ。したがって芝刈りなどもできず、芝も伸び放題という事になってしまう。

ひどい時は、毎日していくので暑い季節など窓を開けていると大変な匂いに悩まされる。我が家の飼い猫の糞などかわいいものだし、匂いなど気にもしないのだが、野良の場合は何を食べているのか、あるいは、縄張りのアピールのためか、それはもう、相当にきついものである。

こんなもの、毎日されては堪らない。という事で、糞をしに来る野良を見つけると、年甲斐もなく水鉄砲を持って追い回しに行くのだが、、だからと猫が我が家を敬遠したことはなく、こちらの隙を窺って糞をしに来るのは変わらない。

そういう中、我が家に来た妹が勤務先の友人の話というのをしていった。内容は、我が家と同じようにその友人宅にも糞をしに来る猫がいたらしい。それである日、その猫に餌をやったというのだ。

すると、マーキングとして尿をしていく事はあるが、糞はしなくなったのだという。いわゆる一宿一飯の恩義という事らしい。

本当だろうか、そう思うのだが、確かに私が我が家に移り住んで後、我が家にもかつて地域のボス猫然とした大物が見回りに来ていたので、みかじめ料として餌を献上していた事がある。その時は、我が家の飼い猫の父親らしい野良猫が糞をしに来ていたが、そのボス猫が頻繁に来ると、我が家の周辺には猫の糞が見当たらなかった。

野良同士が我が家の庭で縄張り争いをして喧嘩していると、ボス猫が顔を出してくれて、追っ払うまでもなく蜘蛛の子を散らすとはこういう事か、そう思うほどの勢いで野良が四方八方に散っていく。つまり、野良もそのボス猫には一目置いていたようで、ボスのいるうちは我が家に来るのを敬遠するようになった、という事だろうか。

残念ながら、そのボス猫がいなくなってから久しいが、その後、我が家に入れ代わり立ち代わり野良猫が糞をしに来るようになってしまい、ついつい北風ではないが威嚇したり、水鉄砲などで追い払う事だけに気が行っていたのだが、妹の友人の話というのは、目から鱗かもしれない。

行政なども今、テロだとか共謀罪だとか安倍晋三がやろうとしている事は、北風をきつくする事しかやっていないような気がするのだが、本来、主である国民に縛りをそれも相当にきつい縛りを入れることなど考えずに、もっと太陽の当たることを考えたらどうなのだろうかと思う。

いや、安倍晋三なりに太陽を当てることはやっているらしいのだが、しかし、それが「お友達」限定では、何をか況やである。

性根の補足 [所感]

前のブログで全く無名どころか、いわゆる学歴のレベルでは劣等生ともみられている私が、首班を担うべきもの与えられたら、今の政党政治家など及びもつかないもの打ち出していく、そういう話の中に、裏付けとして日本の代表的なビジネスマンの親戚であること書いたが、これ、すなわち、性根としての話であり、単に血の話ではない。

私が持ち出した人物、封建時代に御用金を命じられて「ありがたくお受けしろ」そのように命じた人物に言われて、腸が煮えくり返った、とか。

御用金とは何ぞや?
幕府に金がないので、当座資金として、命じられた金額を幕府に差し出せ、そういう事であり、名目は借金という事らしいが、返却というあてのない金である。上杉鷹山が藩財政を劇的に改革したなどとして名君の呼び声が高く、また、そういう事の知識があると、偉そうに言っていた経営陣の人間なども知っているし、また、小説になったりしているが、彼もどれだけ商人から借りた金を踏み倒したか。

これすなわち、封建時代だから通ることである。今は? 当然のことながら通る話ではない。ところがぎっちょん、今、日本の財政が破たんに向かっているという話、御用金を借り受けるのと同じなのだ。

消費税がいくらだとか、これ強制的な徴収であり、決算時にあまったからと、国民に返される事のない金である。
こんな事なら、出資してくれたらそれに対して利子を付けて返す、そういうところが現れれば、そちらに金を回したいものである。それも偉そうに、しかも横柄な態度で借り手がふんぞり返って貸し手が地べたで平伏するなどおかしなものが御用金だったことを考えれば、特筆もののシステムである。

江戸幕府という封建時代から明治維新による欧米の近代制度あるいはその統治システムの真似事が導入されて、これだけ変わったのだから、当たり前のように徴税し、あるいは増税していく今の政治、おかしくないだろうか?

国民に縛りを入れるのではなく、政治にこそ縛りを入れ、税負担の見直しを常にしていく、これが国民から負託を受けた政権の義務であり役割である事、わからない政治家を国会に送っている国民の甘さ。

そういうものを見てきた私には性根の部分で上記、わが親戚の性根が身に沁みるのだがわかる人がいるだろうか。

性根に流れるもの [所感]

元官房長官を父親に持つ国会議員が政務官を辞したが、その後、所属していた自民党も辞めて、音沙汰なし、公に顔を出さないという事がマスコミ話題になっている。どうやら国会議員までは辞めたくない、そういう事の意思表示の表れらしいが、その意思表示は一方通行の手段のみを使っているらしい。

問題の根幹、つまり女性問題だが、父親であった官房長官よりも同僚国会議員に受けがいい、そういう事でエリートコースを歩んでいたらしいのだが、女性問題で官房長官を止めた父親のこともあって「血は争えない」そういう評価になったらしいのだが、そんなもの、昨日今日のことではないはずなので、まあ、同僚という国会議員や政治評論家という人種が人を見る目がない、そういう事ではないだろうか。

さて、その人を見る目がないという事で残念なのが、民進党の幹事長人事なのである。
これも、その性根という観点で見ると、何だろうか、そういうものがある。

昨年のブログでも小池百合子氏と並んで蓮舫民進党代表のことを活躍する女性として持ち上げた私としては、残念な事なのだが、親しいとか、世話になったとか、そういう事が能力を正しく評価するというものよりも優先するのが政党人事らしい。

この時点で、蓮舫氏については、残念、そういう事になったのだが、しかし、持ち掛けられた側として、固辞するという手もある。固辞ではなく、自分には、やっぱりそういう能力がある、そのように誰からも見られるというものを誇示したかったのだろうかなどと、まあ、低次元に見てしまうのだが、民進党の現幹事長、どういう性根をしているのだろうか、そのように思う。

消費税の増税についても、あれだけ反累進課税であり、格差の拡大につながる、そういう話があったもの、一般市民から支持を受けるべき政党の代表になっていながら、強引に推し進めたり、その一方では官僚に丸め込まれて公務員宿舎の建設に許可のサインをしたり、全く無能でしかなかった、民主党の政権から滑り落ちる戦犯の一人である事、全く認識していないのだろう。

つまり性根のレベルで、この人物おかしいのだが、舌禍で大臣その他政府要職を辞職している自民党議員と、どこが違うのかわからない。

こういう人物を見るたびに、私だったら(政府首班として)、そういう思いが湧いてしまうのだが、たぶん、小池百合子氏は別として、私以上に清廉潔白でベターな政策を実施できる人物はいないと思っている。

まあ、私自身が金銭欲がなく、そこそこ食えりゃあいい、そういうもの、もう既に財産形成には遅い年齢なので、余計に一般庶民から見れば法外な収入を税金から得ているくせに、その一般庶民を下に見ることに慣れきってしまっている、既成政党の政治ではできない、そういうアイデア、政治家というおつむの悪い人種ではないからこそ、提案できることてんこ盛りなのだが、日本の歴史上一番のビジネスマンの親戚だと言えば、少しは信じてもらえるだろうか。

もう封建時代ではないのに、近代政治と言いながら、国民に縛りを入れる封建時代への逆行を政権政党の議員自身が感じないのだから、まあ、政治が劣化している事、神と、一部の人間のみぞ知る、そういう事だろうか。しかし、頭の悪い連中のおかしなものに巻き込まれたくない、この私の願望は達せられるだろうか。

違和感 [所感]

年始に一発目を書いたが、さて、その後はと言うと、老母の面倒を見る負荷が今までにも増して大きくなり、とてもブログどころではない、というか、精神的に余裕がなくなってしまった。老々介護だけでなく一人で親を見ていられる方、あるいは家族の介護をしていられる方の苦労を改めて思うこの頃というところでしょうか。

我が家、ヘルパーなど外部を頼ったことはないのだが、介護料というのか自己負担が3割になるらしい。私も私の母親も我が家にとっては高額に思える介護保険料を払っているのだが、介護を利用すれば、新たに支払いが発生するので、利用できない。つまり何のための介護保険なのか、そういう思いが強いが、低所得家庭にとっては、違和感のあるシステムでしかない。

さて、その違和感なのだが、最近、色々な事に違和感を覚える。

私は裁判官も絡んでのでっち上げで勝手に突っ込んできた自転車に対しての加害者認定されて、最高裁まで争ったが、最後は棄却であった。つまり上告にあたらない、そういう事なのだが、私は学校で、日本は三審制の国だと、司法について習った。

ところが、この国の最高裁はお高くとまっていて、違憲とか新たな証拠のないものは審議しないというのだ。地裁、高裁がおバカ裁判官てんこ盛りでの間違い判決を出しても、我関せず、それで通るらしい。

では、憲法にかかわる内容のもの、違憲審査をするのかというと、高度に政治的なものに対しては判断しない、こう宣うらしい。何のことはない、サボタージュなのである。こんな連中が庶民など絶対に手にできない報酬を庶民の税金から手にしていると思うと、こんなのでいいのか、そう思う。つまり最高裁を含めて裁判官というものそして裁判所に対して違和感があるのである。

アメリカでは大統領令に対して違憲判決で裁判所が差し止めたり執行停止をしている。つまり政治権力に対して、三権分立らしい機能が発揮されている、少なくともそのように見えるのだが、沖縄の問題など、違憲審査など放棄しておいて権力すり寄る裁判所の連中には吐き気さえ覚えるのだが、これって私だけの違和感だろうか。

テレビで自転車の無謀ぶりの特集が放映されていたが、特集はしても、私のように個人的に暴走自転車の被害で違法な拘束、おかしな損害賠償、そして冤罪である刑事有罪を受けた身にとっては、そういう自転車による被害者を取り上げずに自転車を取り締まっていない社会には違和感を感じる。

とまあ、私にとっては重大事が、他の人には些事なのであろう、どうでもいい事を、そのように反応する連中に、私の再審請求の運動は無視されている。

だが、私にも安倍晋三が出席した会合での”忖度”という言葉を使った事について、マスコミ等が批判気味に取り上げる、こういう事の方が違和感を感じるのだ。

官僚が国民の財産を勝手に値引きして一部の人間の便宜を、それも首相や首相夫人が絡んだ事に対して、勝手にそういう事をするのは間違い。つまりそういう事が分かった時点で、再発防止策を講じるべきなのに、それはやらないで、政局化させているのだが、だからと、それに絡んだ”忖度”という言葉を安倍晋三が使った事に対して、殊更取り上げるまでもない、というか、敵もさるもの、そういったところではないだろうか。攻める方もマスコミもそのくらいの度量は持て。全てにおいて子ども化した社会に違和感を感じるのだ。

スポーツ馬鹿と錦の御旗 [所感]

タイトルを読むと、なんと過激な、そう思われる向きが大半かもしれない。

まあ、そのくらいの過激な言葉を使わないと、声が関係者に届かないかもしれないので書いたのだが、あまり読者のいない当ブログでは所詮遠吠えに過ぎないか。

オリンピック会場の整備費が当初予算の7000億余から3兆円を超すという試算で小池都知事の見直しの動きに対して組織委会長の森喜朗元首相やボート競技の日本組織の代表あるいは国際競技会の代表からそれを抑える発言があった。

以前にも書いたが、日本のスポーツ選手がなかなか政治的発言をしない、この事に私は違和感があるのだが、スポーツ選手と言っても人間である事、暮らしているのは一般社会の中、そして毎日、買い物はするだろうし、食事もする、そういう事を考えると自分たちの暮らしに影響する政治に無関心、そういうわけにはいかないはずだと思うのだが。

それともそういう事を考える脳の部位までが筋肉に変わってしまった、いわゆる筋肉馬鹿、そういう事なのか。いやいや、そうではないだろう、そう思う。スポーツ選手が政治的発言ができないようなそういう環境がある、そう見た方がよいのだろう。

先のリオ・オリンピックの壮行会で森元首相が選手の中から“君が代”を力強く歌う声が聞こえてこなかった、という趣旨の苦言が呈されたが、スポーツ評論家の玉木氏が君が代は皆が大声で斉唱するような歌い方には似合わない国歌だと森元首相の発言に逆に苦言を呈していた。

私も同感だ。残念な事に、この発言に影響された日本選手が表彰台で君が代を歌っていたが、せっかくの金メダルを台無しにした感があった。対してアメリカの水泳選手のフェルプスは自国国歌を歌っていなかった。しかし、だからと国歌を軽んじていたわけではなく国旗を見つめ胸に手を当てて国歌をじっと聞いていたが、今まで、日本選手のほとんどもそうであったし、その方が自然だと思うのだが、こういうもの、どうこうしろ、そのように強制するものではないだろう。

そういう事に影響するようなことを組織委員会の会長が言うべきではない。それこそアスリートファーストの精神をひっくり返して役員が先行するようなスポーツ界、そういう事になるのではないだろうか。だから選手たちが本音を語りにくい土壌が生まれる素地が日本のスポーツ界にはある、そういう事だろう。
フェルプスが歌っていなかったから、国旗や国歌を軽んじていたなどと批判する人物など一人もいないと思う。たった一人の人物が、例えば、オリンピックの組織委の会長、そういう立場の人物が言ったから、それで右に倣え? おかしな話だ。元スポーツ選手であったかもしれないが、現役ではない、スポーツの精神を本当に理解しているとは思えない人物が発言したら、右へ倣え? スポーツはそういうものではない事、逆に示してもいいと思う。

元首相ならば現実的なマネージメントという観点も組織委員会のトップとして、しかも都から委託された組織のトップであるならなおさらであるはずだ。であるのに、今更、という言い方で予算の精査どころか、見直しの動きにブレーキをかける、おかしな話だ。

こういう事など見ると、やはり森喜朗という人物、密室でしか首相になれなかった、その程度の資質の男、そう見られても仕方がない。

スポーツ選手だから一般常識もない、そのように軽んじられる、そういう事があってはならない。だが、選手の側もそういう環境下にあるからと、何も発言しなければ、相変わらずの筋肉馬鹿、そういう見方しかされない事も確かだろう。
リオ・オリンピック壮行会での森発言は逆にスポーツ選手が人並みの政治的発言をしていけるいい機会だったと思うのだが、黙ってそれに従ってしまっているさまは、自分たちで首を絞めた感がある。

私がここのブログで現首相の安倍や元首相の森を批判したから国賊であるとか日本という国家を軽んじているなどと短絡的に見る人はほとんどいないだろう。私はおかしなことに対しておかしい、そう書いているだけであり、日本を取り巻く韓国中国、北朝鮮など、日本よりもおかしい国はいや、国民も含めてだが、より厳しく批判している。
日本国民とか何とかよりも先にまず、人間としてどうか、そういう事の方が気になるのであり、森元首相なども日本人として云々より先に、人間としてどうか、そういう視点で見てしまうからである。

小池都知事がで、東京オリンピック予算の見直しに着手した事への批判の錦の御旗が、東京オリンピックを成功させよう、その言葉であり、今までどのように決めていたかという透明性を欠いた事への反省はしないで、見直しとか批判という事に対しては、錦の御旗に対して、いかにもそれを失敗させようとしているかのような言い方をするのだが、そのような過剰な出費で、本当に都民が祝える、あるいは喜ぶオリンピックになるだろうか。

組織委員会なども我々から見ると立派過ぎると思うビルに入っているらしいが、オリンピックの御旗の元ならば何でも通る、などという時代ではない事、組織委員会こそ肝に銘じてほしいものだ。

何だか変だね、知事とか都知事とか‥ [所感]

テレビ朝日の月曜深夜に羽鳥慎一と橋下徹出演で時事関係の話をやっているようなのだが、たまたま見るくらいなので番組タイトルも内容もおぼつかない話であることを前提に読んでほしい。

時の人という事で舛添要一という人物よりは知事あるいは都知事という方に焦点が当たっての話をしている、そういうつもりで聞いているのだが、ソネブロでの大勢は橋下批判派だろうか。

私自身は大阪維新の会の方向性や自民党の補完勢力のような動きに共鳴するものではない。このブログでは過激に書いているが私はもともとおとなしい、その他大勢と仲良く楽しくやっていきたい、そういうタイプの人間なので、過激行動は本意ではない。

だが、一方で問題解決という意味では、八方美人で物事が解決しない事、よく知っている、そういう人間でもある。旧態依然の会社の中で変化を求めず、ひたすら個人の保身ばかりを図る奴が、自身の身が危ないとなると他人に転嫁しようとひたすら陰で動く。

まあ、こんな会社がよくなるわけないが、何故か今の日本、そういう企業が増えてしまったような気がする。企業社会がそうであっても自治体あるいは役人の世界は活性化して斬新なアイデアの元、目を見張る実績を出している、なーんてことはまず、日本ではないだろう。

日本と限定的に書いたのは、私自身が官庁でそのように国をリードするように動いている役人を見たことがある。もちろん日本ではない、からである。

日本でない国では役人が先端をいく仕事ぶりを示していても日本ではどうかというと、まあ、一般の企業の先を行くことは少ないのではないだろうか。

そういう中で、法には触れなくても倫理的にはどうかとか、そういうもので語られている舛添要一都知事の問題。自らの経験、見識と照らし合わせてという事だろうが、件の番組のゲストとして前とか元とか知事経験者の話を聞いていると地位にふさわしい待遇処遇を受けるのは当然、そういう感覚で話している人物が多かった。

まともに聞こえたのは橋下徹だけである。皆さんご存知の通り、著名な弁護士である橋下徹はタレント弁護士として働けばかなりの収入を得られる。大阪府知事や大阪市長の比ではないだろう。

だからと、法外な活動費あるいは公私混同を行ってよいなどとは誰も思わないだろうし、本人だって思わないだろう。それを、自分は高額の収入を捨てて府(市)民のために働いているのだから飛行機はファーストクラス、ホテルは高額のスイート温泉地への行き帰りはおろか、宿泊費も公費で支払うのは当然、そう言えるのか?

もし言えるとしたら、選挙時に自分はこういう事をしたい、それが実現すれば皆さんはその恩恵を受けて今よりもより快適に暮らしていける、だから、その分、私にもその地位にいる間、贅沢させてほしい、そう訴えて、当選し、実績を出せば二期目、三期目と当選させてくれる、それが市民の答え、そう思う。

だが、知事経験者たちの話を聞くと、それ以前に私はあなた方と違う、あるいは知事職そのものがステータス、そういう感覚で、端から好待遇を受けるのが当然、そういう雰囲気なのだ。

もちろんゲストで来た知事経験者全員がそうとは言わない。だが、元都知事の石原慎太郎は、週に二、三回の登庁であるとか前都知事の猪瀬直樹は業務の根幹を把握しないとか、どういう仕事ぶりなんだろうか、そういう話が出てくる。

結局、都知事はお飾りでいい、そういう事なのか。また他の府県知事は中央とパイプがつながって交付金が来れば問題ない、そういう事なのか。

仕事をしなくてよい人物を知事に選んで高額の報酬を払うなんて民間企業ではなかなかできない事だが、そんな税金の使われ方をして何の疑問を感じないとしたら都民はバカこの上ない、そういう事ではないだろうか。だからこのところおかしな人物が都知事になっている、そういう事だろう。

知事を見ればその都道府県民の見識のレベルが知れる、そういう事なのだろう。評判が悪いようだが、橋下徹、税金から報酬を受ける知事という観点では一番まともなことを言っていたように思う。

義援金 [所感]

町内会から熊本への義援金の募金の案内が回ってきた。最低額300円以上でお願いしますとのことだったが、東日本大震災への義援金のことを考えて、その半額を町内会に支払い、別途、顔も知らない親戚に東日本大震災でねん出した相当額を払うことになった。

その町内会の分、徴収に来た担当者が、「こんなに? これじゃ困る」そう言ったが、気持ちはわかる。今時、毎日の生活に四苦八苦している身としては、助けられるものならばそうしたいが、我が身の生活を無視してまでは出せない、そういう事だろう。

いや、我が家だって、分不相応の額を出しているのだ。私が実家にいなかった神戸大震災の時、贅沢とは無縁の暮らしをしていた両親は十数万円の義援金を出したらしい。父親が亡くなり、母親の寡婦年金で暮らす状態になった今でも、困っている人にはできるだけのことをしよう、という事なのだ。

いやいや他人のためではない。情けは人の為ならず、である。
私が冤罪で罪を被せられた、という事案も、私の情けが仇となった、その事、母親も十分に認識し、また、父親が生きているときのようには自由になる金がない、その事がわかっていてさえ、町内会の義援金徴収者が自分の考えてきた金額と差がありすぎる、そういうことだったらしいが、それは個人個人事情も異なるし、自分が分相応、そう思うところで出せばいいのだと思う。

我が家は分相応という考え方ではなく、困っている人にはできるだけのことをしたい、そういう考えでの行動だが、しかし、情けは人の為ならずとは、皆がそういうことを理解し、情けを持っていて初めて意味のあることになるのであって、屑警官や下司の検察官、裁判官に世の仕組みが崩されている現代社会では、全く意味のない言葉になっているのではないか、そう思っている。

しかし現実に困っている人たちが熊本にはいるので、些少ながら気持ちが生きてくれればいいと思うのだが、自然災害という意味では日本列島に住む限り他人事ではない。その限りにおいて情けは人の為ならずである。

進化しているとは思えないパソコン [所感]

前に購入したパソコンは友人が私のために会社を立ち上げるとのこともあって、手軽だが能力的には問題がないようにとその当時のノート型では最上位に相当する機種を購入していた。

当然、ノート型ではあっても、記憶容量なども、その前に使用していたノートやデスクトップ型のパソコンなどよりも記憶容量がでかく、果たして記憶容量だけで見れば使い切れるだろうか、そういう感覚があった。

ところがカーナビの更新データをパソコンで受け取るようになってから、最低16ギガバイトの容量がCドライブで必要という、その16ギガバイトの確保が昨年辺りから怪しくなり、更新データを受け取ろうというタイミングで色々不要なものを捨てなければその容量が確保できないということが二回ほど続いた後、とうとう昨秋から更新データが受け取れなくなってしまった。

記憶容量に問題がなければ、他に、使いづらいというものはほとんどない、そのパソコンをどうするか?
結局、不要なデータやソフトを捨てる、そう結論付けて、昨年末から今年の初めにかけて、整理を始めた。

ところが、捨てた時は、いくらか確保できる記憶容量が、シャットダウンして、次の日に立ち上げると、もう、危ない状態になっている。時としてアウトルックさえもが立ち上がらない、そういう状況で、カーナビの更新などおぼつかない事もあって、とうとうパソコンの買い替えを決意した。

いや、若干、金のあてもあったのだ。かなり前に中国に渡航するたびに換金して持っていた人民元。もう、相当古くなって、換金してくれるところもないだろうと諦めて放置していたもの、その大部分は捨ててしまったようなのだが、多少なりとも助けになるかと、海外で働いている友人に「使えるようだったら、使ってくれ」と渡すつもりで探し出した人民元。

友人からは、申し出だけありがたく受け取っておく、との返事で、行く先がなくなった、それをインターネット調べると郵便局で換金してくれるという。ということでパソコンを買い替えるには十分の日本円が臨時収入として入ったのだ。

いずれ買い替えることなど考えれば以前のような最上位機種は必要でないと、ヤマダ電機で色々聞いて(同じヤマダ電機でありながら、以前の買い替え時も対応の悪い店と対応の良い店とあり、今回も前回と全く同じ構図が存在し、人間は変わっても店の雰囲気の違いに、どういうことだろうかと首を傾げた次第)ウィンドウズ10搭載のパソコンを購入したのだが‥。

まず、古いパソコンに存在する引っ越しソフトが効かなかった。そして、後述する手続きの後にトライした新しいパソコンに存在する引っ越しソフトも。

前回、引っ越し用に購入したハンディハードディスクが、どうやっても見当たらないので、ブルーレイディスクで何とか、そう思ったが、どうしても途中でエラーが出てしまう。仕方がないのでデータ用のディスクを購入してトライしてみたが、同じようにどうしても途中でエラーになってしまう。

ヤマダではない家電量販店に行って外付けハードディスクを購入しようとしたら、そういう使い方だとデータがすべて消えてしまう、と訳の分からないことを言われ、パソコン専門ショップに行き、データ引っ越しでの最良方法とその他について聞いてみたが、意外と知らない。

結局、信頼性からUSBメモリーを使う事を考えて、大きめの容量のもの購入。ところが、さて、キャップがついているもの、どっちが差し入れ口なのか、そういう事さえもわからないなか、購入して、その時点で初めて新しいパソコンを開封し、そこに古いパソコンがそのままで使える引っ越しソフトがあることを知った。全く我ながら無駄な時間を過ごした、と思った。

ところが、残念ながらUSBメモリーは問題なかったのだが、どうしても新しいパソコンの引っ越しソフトが途中で止まってしまう。結局、引っ越しソフトなるもの、以前のものも新しいものも全く意味をなさなかった。

そういうさなか、カーナビのメーカーから無償期限が一か月後に終わるという通知が届いたので、反論は別として、慌てて新しいパソコンで更新データを受領できるようにセッティングの必要がある。ところが、新しいパソコンのメールが使えない。

インターネットに接続すると、パソコンのほうでは勝手にメーカーに接続するようになっているらしいが、アウトルックの設定のために必要なキーをメールで送信するというメッセージ。

言いたくないが、古いパソコンの状態を変えずに、新しいパソコンを起動させて引っ越しソフトで古いパソコンから新しいパソコンに設定を持っていくというのが引っ越しソフトなので、古いパソコンをインターネットにつなぐわけにはいかない。

そうすると、前述のようなパソコンの立ち上げや設定では、立ち往生してしまうのだ。ウィンドウズメールもおかしな反応をしたし、まあ、ふだん、使う人としてパソコンを使用している人間には、腹立たしい限りである。

さて、どうしょうもないので奥の手というか、パソコンメーカーも想定しているかもしれない、古いパソコンを使って新しいパソコンのアウトルック設定のキーを入手したはいいが、あらゆることが使いにくい。

たぶん、スマホ仕様なのだろう。だろう、というのは私がスマホを持っていないからだが。パソコンを主に使うのに、さらにスマホを持って無駄な金と時間を使う気にはなれないのだが、メニューから何からパソコンの構造を想定して使用していた私にはスマホ仕様は全く使いにくく、以前ならば簡単にソネブロにたどり着くのが今は一時間かかってしまう。

アーキテクトの部分から明確な意思が見えないのだが、それとも皆さんにはこれが使いやすいのだろうか。いや、私自身がもう過去の人なのだろうか。

取り返しのつかない事 [所感]

パソコン買い替えのトラブルで寝る間もなくなるほどの多忙さが2か月以上続いています。ブログへの投稿もできませんでしたが、その顛末は、また別の機会に。

さて、中学校の恩師が喜寿を迎えるということで、私自身は遠地にいて老母の介護もあり、駆け付けられないので、たまたま連絡のついた、かつてのクラスメイトであった女性に、その段取りを依頼したのだが、恩師に確認したところ、恩師を含めて4人での食事会ということになったらしい。

その恩師にとっては私たちは最初の担当した卒業生ということだったのだが、初めてだから色々不手際があったというよりは、本当に熱心に接触してくれた他のクラスにも人気のあった教師ということだった。

私の級友たちも足しげくその恩師の家には遊びに行っていたようであり、普通に考えれば喜寿祝ということでもあれば、数十人集まっても不思議ではない、そういうクラスであったはずなのだが。

では、なぜ、こういうことになってしまったのか?
これは卒業時の最後のホームルームで、クラス会の幹事を決めるときに、その当時、流行っていた、いわゆるノリで、ふつうなら、この人はその任ではないだろう、そういう人物に決めるという、それを、この時にやってしまったのだ。

もちろん、その恩師も同席はしていたが、そういうやり方は駄目だ、と介入する性質のものでもないので、私一人がクラス会幹事とは、そういうノリで決めるものではない、という趣旨のこと等、反対意見を述べて、ちゃんと決めるようクラスの全員を説得したが、もう卒業、ということもあり、浮ついていたクラスメイトも多く、多数が、ノリで名を挙げた人物で異議なし、そう囃し立てると、それが決となり、何もしない幹事が決まってしまった。

結局、当時のクラスメイトの連絡名簿さえ一度も作成されぬまま、皆が雨散霧消という形でごく少数、連絡を取り合っていた人物だけが個々に、何かあると集まる、その程度になってしまっている。

もう今更、音信不通のクラスメイトを探し当てるのは、特に、尋ねられた部署のほうが、個人情報保護法などを持ち出して対応するのを嫌がる時代になっては、不可能といってよいかと思う。

今日を想像できたというのも、50人近い人数の中で私だけだったというのも寂しいものだが、想像力が欠如していても、今の世の中は民主主義という多数決で決まってしまう時代、こういう内容のものだけならばいいかもしれないが、私たちを取り巻く環境の中には、将来に禍根を残しそうなことが、浅慮の人物たちによって進められていること、皆さんはどう感じているだろうか。

日本の裁判所に大岡裁きはできない! [所感]

大岡越前を題材にしたテレビドラマは何度も放映されているが、今もNHKで新しい配役の元、配信されている。

時代劇ファンになる年齢に、とっくに達しているという事と、推理ドラマというと、みょうに殺人ばかりが劇中で行われる今のドラマには食傷気味の自分としては、ほっとする内容でもあることから、大岡越前は優先的に見るドラマ、そういう事になるだろうか。

残念ながら、内容に関しては単に楽しめる、そういう事ではなく、冤罪に陥れられた自分の事を絡めてついつい見てしまう自分がいる事を意識しながら、さて、こういう大岡裁き、本当に事実だっただろうかとか、今の裁判所で有り得るだろうか、そういう目で見てしまうのだ。

皆さんは、裁判所、真実を暴いて正直者が馬鹿を見るようなこともなく、人命が地球よりも重い、そういうヒューマニズムに即した組織あるいは機関、そのように思っているだろうか。

実は、私も自身が不当な逮捕あるいは拘束されるという事態を経験するまで、冤罪などは本当に一部の話で、裁判官というものは真摯に事案に取り組み人を信じる事をベースに業務に勤しんでいる、そう思っていたのだ。

確かに、足利事件の再審請求、それもDNA鑑定などたいした労力もいらないものを門前払いし続けたりあるいは放置し続けた池本寿美子以下の女性裁判官のような、どうしようもない人物達もいたが、本当にそういう不心得者は一部だと信じていた。

しかし、現実に法廷に引き出されてみると、いや、その前から何年も留置課にいるという警官でさえ、経験がないと言うほど不当な拘束をされ続けたり、法廷での暴言や恣意的指揮などおおよそ世間一般では考えられない、いや世間では通らない法廷指揮と世間的常識とはかけ離れた法廷指揮が行われたのだ。

ここには性善説などという、人間としての良心の欠片もない法廷指揮しか行われていない。目立つのは人間性の悪さである。
ただただ、ひたすら罪に落とそう、あるいは悪い印象ばかりを法廷で目立たせよう、そういうものしかない。

法廷で出てくるものは証拠と言えるようなものではなくただただ、印象として悪役を決定づける論でしかなく、証拠というものも少しでも冷静に見れば嘘で塗り固めたでっち上げだと分かるようなものばかりである。しかし、証人として出てくる警官、目撃者、そして悪人を印象づけようとする検察官。まさに四面楚歌で自身でさえ、本当は俺は悪者ではないのか、そう思ってしまいたくなるほどのものである。

四面楚歌は、前述のものに裁判官を努めた栗田健一までもが罠を嵌めて、言質を取ろうとする、こういう状況から、私自身が裁判での法廷で実際に感じたものだが、ここには正義の欠片もなかった。

大岡越前は、史実に遠山の金さんのエピソードなどを加えた作り物という事だが、元ネタにはちゃんと史実などが入っている。つまり封建時代の大岡越前の裁きの方がより性善説、それも当たり前の事だが、不必要に咎人を作らず、いい社会を作っていく、その為のお白洲、そういうものが伝わって来る。

日本の検察官や裁判官には大きな裁量権があるという。しかし、それらは社会とか容疑者(起訴されれば被告)をいかにいい形で社会に戻すかとかそういう精神はなく、単に検察官、裁判官の権威を示す道具としてしか使われない。

とにかく、逮捕された人間を、人間としては見ずに、屑と呼んだり、罵倒したり、いったいこの連中は自分たちを何様と思っているのだろうか、そういうものしか感じ取れない連中なのだ。
大岡裁きを”見事”とか”溜飲が下がる”という日本人がこういう裁判所の実態を放置している事に疑問を感じてならない。

まあ、史実に残るような人物と栗田健一のような屑とでは比較にもなるまいが、しかし、偉そうにしていた最高裁の面々なども、屑でしかない事、皆さんは知っておく義務がある。

性悪説

人間性の悪さ
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