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刑事事件における調書なるもの。 [司法]

TBSテレビドラマの刑事専門弁護士99,9などでも語られる調書なるもの、本当に警察とか検察とかのねつ造が分かってしまうものなのだが、どうしてこれを裁判所が偏重するのかわからない。

まあ、経験したものにしかわからないと思うが、しかし、星の数ほどの事件の結果が、調書偏重とは、どれだけ裁判所のレベルが低いのかと、改めて、日本の司法の稚拙さを感じてしまうものだ。

例えば、刑事訴追の対象となる可能性のある事案が発生するとする。通常、まずこれの捜査に携わるのが警察であり、警官なのだが、調べ書きという感覚であれば、担当警官がその調書を書く。
通常、容疑者本人から事情を聴いて調べ書きとするのが、自供調書なるものだが、こんなもの、警官が勝手に書いて、容疑者本人に「ここにサインしろ」、そう言って調書の体裁を整えた程度のものが本人自供調書として裁判所に証拠提出される。

通常、調書の末尾には調書作成した担当警官が調書の内容を読み上げて容疑者本人に聞かせて、容疑者本人に、サインをさせる、そのような手続きになるし、また、調書にも本人に読み聞かせ、そう書いてあるのだが、実際には私の事案でも私の調書も、私に不利な内容をいかにも母親本人が語ったかのように担当警官がでっち上げて(何故、そういう事ができるかと言えば、警察署など全く縁のない人間が、調書などとも知らされずに、勝手に警官が書いたものを、老眼でしかも耳の遠い高齢者であることを利用して調書末尾にサインさせることなど本当にたやすく、私が3ヵ月もの不当な拘留の後、家に戻って、色々、警察や検察のでっち上げたものについて調べていった過程で、母親の調書がでっち上げられたものだと発覚したのだが、その時まで母親自身が、調書など取られた事さえも自覚していなかった。ただ単に、私が警察が訴追するような行動をとっていない事や普段からまじめで慎重な行動をとる人間であることを訴えに行った、それをサインを求められてただ、単に自分の名前を書いた、そういう認識であった。つまり誰もが簡単に警官の仕掛ける罠にはまる構図が今の警察の取り調べには存在してる。)サイン入りの調書を取っている。だが、担当警官は内容の読み聞かせなどせずに、ここにサインをしろ、そう言ってサインをさせている。
私の場合、二度目に調書を作成した時に、内容が事実に反する、そのように言っても、作成者は警官なので、修正に応じない。調書作成中に弁護士が来ても、この調書にサインするまで会わせない(そんな権利などないはずだが)、そのような手を使う。こういう事、弁護士が抗議しても、犯罪構成要因を変えるほどにはならないと高をくくっている節があり、警官自体がおかしなことをしてしまう。

これには検察の姿勢がある。検察には起訴に関して大きな裁量が与えられている、という事からでっち上げてでも起訴する、そういうものが、調書作成にも反映するのだ。だからしっかりした手続きとかあるいは本来の目的などすっ飛んでしまった調書が出来上がってしまう。
事件や事故の時に、担当警官が捜査しなくて誰が捜査するの? 事実に符合しない調書を調書として法廷に出すなど、技術者として長年やってきた私にはとても信じられない事だ。
企業の中では、ビジネス上、あるいは製品のトラブルがあった場合、「関係者に話を聞いた結果、こういう事でした」だけでは済まない。

つまり経理上の処理が必要な損失あるいは費用計上の際、その根拠となるものなしには、勝手な処理はできない。製品の事故の場合は、さらに再発防止策など講じる必要があり、事実を科学的に解明した上での再発防止策が必要であり、事実と符合しない調書など、調書と言えないどころかでっち上げ、あるいはねつ造という事になり、社会的に影響のある製品やビジネスであった場合、社会から批判を浴びて、企業として社会的制裁を受ける。

そういう意味では警察調書、検察調書は事実あるいは物証との符号のないものばかりで占められており、そこに裁判所あるいは判決が言及せずに平気で有罪を出すことの意味が分からない。
有罪は、そういう判決を出す裁判官たちの方(無実の人間を罪に落とすことは単に怠慢という言葉では済まされない重大な法律違反があり、その事によって失われる命や自由などを奪われたことに対する重大な違反行為は重要な刑罰を与えるに値するものである)であり、また、そういう事実と符合もしない調書を作成する警官、検察官たちであり、こういう事を糺していない日本の司法制度による有罪判決は、毀棄しなければならない。

調書とは、事実との照合をもとにしながら関係者から供述を取るものであり、事実と符合しないものが証拠採用される今の裁判は茶番でしかない。

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改めて。情けは人の為ならず。 [社会]

以前のブログにも“情けは人の為ならず”と書いたが、貴乃花問題を絡めて改めて。

育った環境など人には色々あるので、こうでないといけない、などという気はない。ただ、私は四横綱揃い踏みを楽しみにしていた口だったので、それが叶わなくなった腹いせも含めて、独善的にこの問題を述べたい。

外国に出ると文化や生活習慣など全く異なる民族との接触により、誤解も含めて摩擦が生じることは多い。場合によっては命にかかわるようなこともある。
単に移動するだけのタクシーが強盗の場になったり、普通に日本で生活する感覚とは違う国も多い。そういう体験を何度もしていると、日馬富士の暴行問題も、怪我をさせたのは悪いことかもしれないが、私などからすると視点が違ってしまい、モンゴルのような国で育っていたら、あまり細かい事を気にしていたら、厳しい自然の中で生きていけないとか、そういう事になるので、日本人とは、あの程度の暴行への感覚の違いがあるのではないだろうか、貴乃花の執拗な日馬富士の刑事訴追や協会批判などは、かえって現地、モンゴルの人たちには違和感の方ばかり残るのではないか、と思っている。
実は、今から二十数年前、アジア諸国のあちこちで、いわゆるカラオケラウンジというところを利用する機会(ほとんどのケースで自身の遊興というよりは、取引先の人間の遊興の口実として接待される場合が多かった)があって、当時、韓国企業が肩で風を切るようにあちこち荒らしまわっており、カラオケラウンジの女性たちが、彼ら韓国人たちの悪口を言っていた。つまり、ただでさえ粗暴な韓国人が、酒が入ってさらにテンションが上がると、全く、セーブが効かなくなり、力任せに彼女たちホステスを思い切り叩くので、痛いし、あちこち痣ができるのだという。だから韓国人の客が来ると、本当に嫌なので、先に日本人の客が入ってくれると嬉しい(社交辞令もあるとは思う)と言う。
韓国人自身だって、そういう自分たちの風評が、耳に入らないはずはないのだが、遊興の席での粗暴さが収まったとは聞いていない。察するに、その程度は彼ら自身には暴行とか暴力とか、そのような認識の範疇ではないのではないだろうか。モンゴル人のケースはさらにその内容がもう少し過激であっても、事細かく問題にするレベルではないのかもしれない。
もちろん、何針も縫うような怪我をさせた事は決して許される事ではないかもしれない。しかし、貴ノ岩は叩かれて気を失っていたとかいうわけでもなく、(何故、誰も止めないのか、止めてくれないのか、出身校の知り合いもいる満座の中で一方的に叩かれて恥ずかしい)とか体裁を気にする余裕もあったのだ。問うに落ちず語るに落ちるであって、何故、貴乃花が日馬富士の暴行問題を、殊更、暴行された貴ノ岩の症状を重症化させて語ったのか、その意図からして、私には違和感しか覚えなかった。テレビ桟敷でさえ、立ち合いの力士同士の頭同士の当たった音が聞こえてくるのに、手やリモコンなどのおおよそ全体重をかけたとはいいがたいほどの軽い質量のものでの叩き程度が問題になるような力士の育て方をするなら、親方辞めたら? その被害について大げさに騒ぎ過ぎたことは子供でも分かる話だと思う。
もちろん、この見立てに対して異議のある人は大勢いるだろう。それを承知で書いているのだが、この暴行事件で、暴力を振るったという事実があっても一番男だったのは、日馬富士、そういう気がしてならないのだ。私は自分自身が、そうではないと思いながらも、実は、私が同じような暴力に訴えるタイプの人間だからかもしれない、という危惧はあるが。
貴乃花の思惑は別として、ここでの問題は、パワハラの一部であった、そういう事の認識なのだと思う。喧嘩という事ではなく、横綱が言葉にしろ腕力にしろ、下のものに向かって何らか行動を起こせば、逆らう事はできない、そういうものまで地位のある人間は認識しておかなければならない、そういう事だろうか。
そういう意味で、日馬富士が自身の暴行を感情に任せた面は悪いという事になるのだろう。だが、一度は白鵬と言い争いになっても貴ノ岩をかばった日馬富士が、最初から貴ノ岩に悪意を持っていたという事ではないし、また、だからと白鵬を敵対視するわけでもなく、たとえ年下でも優勝回数の多い大横綱である白鵬に対しての礼も示している日馬富士が、自分がそのような礼を示すほどの白鵬に対しての貴ノ岩の態度に思わず感情がむき出しになるほどの怒りを持ったことについて、やったこと自体は悪いとしても、事の良しあしで、対応しようとした、その考え、礼節は悪くはないのではないか、という事である。
結局、事態を刑事事件、さらには日馬富士引退後の相撲協会に残れるかどうかの民事訴訟にまで持ち込まれた日馬富士が、自身の行動を、その後、強く主張できなくなってしまい、被害者及び被害者側という錦の御旗で、貴ノ岩が、全く悪くない、あるいは何の落ち度もない、そういう事になってしまったが、、その辺は、貴乃花はずるい、そういう事になる。刑事訴追に持ち込めば、事の発端、経緯がどうあれ、手を出した方が悪い、そういう事になってしまうので、それならば、いい加減な事を言ったり口から出まかせで、摩擦の生じることを起こした本人は、ほくそ笑む、そういうものになってしまうだろう。今回の事案も結局、日馬富士を引退に持ち込んだ、その事、その意図の裏に隠された政治的思惑が、貴乃花のいやらしさを表していると思えてならない。
自身が巡業部長であるならば、興行の成功や、入りなど気になる筈だと思う。協会員としても横綱が協会の看板である事、熟知していなければならないところ、逆に自身が、その横綱を引退に追い込むどころか刑事訴追という汚点にもっていくのだから、何をか況やなのである。
禍根や恨みを残さないようにするならば、まずは、しっかりと貴ノ岩から事情を聴取し、相手方の日馬富士、伊勢ケ浜親方と話し合って、事実関係を糺して、双方が納得しそれが相撲協会の考えに沿うようにしてこそ、再発防止策、あるいは今後の相撲協会の発展につながっていく、そういう事だろうし、それだけの度量を見せることが自身の考えに賛同する親方を増やし、自分の考える方向への相撲協会のかじ取りに繋がっていくのではないか、と思う。個人バッシングではないが、貴乃花親方を買っていた北の湖は理事長時代、テレビカメラに笑顔を向けることはほぼ皆無であり、各種問題発覚後でも事情説明どころかぶすっとした顔をファンに向ける事しかせず、ほとんど改革らしきものを見せたことがなかった。そういう理事長に買われていた貴乃花が“改革”と言っても一般の人には全く内容が分からない。
話を戻すが、情けをかけることは、相手の為にならない、などというものではなく、その情け自体が回りまわって自分にも戻ってくることもある、すなわち、情けのある社会こそが、弱者にやさしい社会であると思うのだがどうなのだろうか。
私など、このブログで偉そうにしかも過激に色々攻撃しているが、生きていること自体で相当の業を積んでしまっている事、自身では認識しているつもりである。だいたい、他の命を引き換えに我々は生きているのだから、それを考えればできるだけ業を積まないよう、情けを掛けられるものにはできるだけ掛ける、それが自分自身生きやすい社会のもとになる、そういう事ではないだろうか。
協会の看板を屠ったくせに、自分のところで暴行問題が起きたら、弟子を相撲が取れないようにはしないでくれとか、色々、言っていたが、暴行問題での日馬富士やその親方の苦悩をどう見たのか。ダブルスタンダードを自身がやっては、相撲道なるもの、全く説得力に欠けるというものである。
結局、北の湖理事長の次は自分だと思っていた、その貴乃花がそのまま理事長にならなくてよかった、それが日馬富士暴行問題以降の世間の認識になってしまったのではないだろうか。
まあ、人間はそういう失敗から色々学ぶというものだと思うが、生きている限り日々、業を重ねている事を意識していれば、情けは人の為ならずという事も理解でき、ダブルスタンダードとか自分の時だけ勝手な事を言ったりしたりする、と陰口をたたかれることもなくなる。つまり失敗で学ぶという事であってさえ、取り返しのつかないようなところまではいかない、そういう事になると思う。
今回はからずも、自身が思惑を押し通す事をやった、その口実の出来事が災難として貴乃花自身に降りかかったわけだが、我々市民はそういう事を気に掛けながら日々生きているものだと思う。八角理事長も相撲協会も今回大人の対応をしたと思うが、“情け”のない仕事ぶりをしている役人の社会が、やがて日本のいい文化を失くして不毛の社会を作ろうとしていはしまいか、それが気になっている。いや、私自身も、情けが仇となって、自身いわれのない罪に落とされたのだが、周囲から、情けが仇となった、この国では、情けは通用しない、そう言われ、嫌な社会をくそ官僚たちが作っているなあ、そう感じている次第。

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佐川なる人物 [所感]

佐川さん? 
違うんでないの、この言い方。何事も裁判で有罪確定までは犯罪者と呼称をしてはならない、そう思うのだが、しかし、この佐川なる人物は、国会答弁で、国民の利益を損なう事をやっている。これは、裁判を待つまでもない事で、“さん”付を何故するのか、という事になる。

犯罪行為云々以前に国民に奉仕するのが仕事である役人として、その役割に反した行為で、事実解明を事実上止めた行為は重大である。結局、事実上の虚偽答弁である事が判明するまでは、その答弁自体に犯罪性も背信性も問われない事になるのだから、役人とは恐ろしいものだと改めて思うのである。

つまり上記理由で私は“佐川”と呼び捨てにしている(上司であった財務大臣の麻生太郎氏の慣例的呼び捨てとは性格が異なる)のだが、テレビ・新聞の多くは決裁文書の改竄問題発覚後でさえも、“さん”付している。これは私の感覚の方が間違っているのだろうか。

そもそも国民の利益を優先するべき役人が、国民への背信行為である森友学園問題で、利益を損なう方向に動いているのが問題なのだが、野党が、というよりは国民が政権に問うべきことは、国民の利益を優先するべき役人が、国民の利益を損なう動き、そこには当然、忖度も含まれての話なのだが、そういう事を“良し”とした、その事、体質を問うものであって、それに組した役人がその権利を言う資格はないと思う。

もし、自身に一部の理でもあると思うのなら、国民の税金からいただいてきた俸禄をすべて返上してから自己主張すべきであると思う。自身も国民の一人であるはずなのに、国のシステムが大きくゆがめられて、将来にわたって、その禍根を残すような事、想像もできないような人物が局長どころか国税庁長官にまで登用されたのだから、安倍政権の罪は重いし、本人もしっかり事実について語るべきである。

しかるに佐川は、国会の証人質問でも“刑事訴追の恐れのある内容なので答弁は控えさせてもらいたい”と述べている。自身が罪に相当することをやったのならば、それを潔く認めて問題を正しい方向にもっていくのが国民の一人としての義務だろうと思うし、男としてというより、この問題絡みで財務省の担当者が一人、命を落としているのだが、その事まで鑑みれば人間としてどうなのかという事になる。

他人の命は軽視するが自身が刑事訴追されるのは嫌だ、それが今回の佐川の国会での証人質問での回答姿勢だったと思うが、私の見方、違ってますか?

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平昌オリンピック日本人選手絡みで [スポーツ]

北朝鮮問題や他の日本の政治の事があれば、安穏とオリンピック観戦とはならないのだが、どうしてもテレビ欄の多くをオリンピック放送が占めてしまったので、ついつい見てしまった、その中での自分の感覚を少しばかり書いてみた。

 まあ、私などは実力もなかったからオリンピックとは全く無縁だし、語るのもおこがましい。だが、図抜けた実力を持っているという事でなければ、やはりオリンピックでメダルを取るという事、運が絡むのだと、より感じた大会だった。

 それにしても中国人とか韓国人とか、相変わらずというか、まあ、彼らのそれが全てとは言わないまでもレベルが低いというか、何でも興ざめにしてしまう体質は何だろうか、そういうものと、それを非難排除するに値しないレベルの人物がIOCの会長になっているのも何だろうか、というものが一方にはある。やはりその名のごとく、バカ会長である。

 ジャンプの葛西選手は、まだ、金メダルを取っていないから、それが競技を続けるモチベーションらしいが、私の中ではソチのラージヒルの金メダリストは葛西選手という事になっている。テレマーク姿勢の右足が前か左足が前かなどという、飛形審判席から見える位置関係で採点に差が出るものよりも、より美しく飛形を取った選手が一番遠くに飛んでいけるというジャンプ本来の趣旨に照らせば、最大距離を飛んだ葛西選手がソチでは金メダルだったのである。まあ、余計なプレッシャーなど関係なく、楽しんで飛んでもらえばいい。

 ジャンプはあの船木選手のように圧倒的に勝っていたものが日本選手に不利なようにルール改正された途端に鳴かず飛ばずになってしまう例もあり、微妙なものがあるようなので、そういう中、世界の上位を争うレベルになった葛西選手は大したものだし、まして圧倒的にトップに立っていた高梨選手は立派だと思う。

 残念ながら高梨選手は金メダルに届かなかったのだが、諸事情で最高のコンディションで臨めない事もあるのだから、金メダルを狙うなど、聞いた周囲が痛々しく感じる言葉を発信する必要はなかったと思う。今期の状況を考えれば、銅メダルは最高の結果だった事、周囲もわかっているし、自身にもわかっただろうと思う。ただ、ポテンシャルは金メダルを取った選手よりもさらに一段上である事は確かなので、それを今後、どう引き出していくかだと思う。

 フィギュアについては所詮、採点種目なので、主観が入る事を前提の種目だと思っていなければならない。羽生選手はその点、日本人スポーツ選手としては見栄えの良い選手なので、なかなか審判もマイナスをつけづらいという利点があると思う。もちろん金メダルを取る演技をしたことは誰も否定のしようがないので、さすがに中国人審判員もマイナスの採点はできなかったと思うのだが、中国人選手とメダル争いで絡む競合選手について、それが日本の宇野選手だったらしいのだが、明らかな恣意的採点という最低点をつけるなど、さすがに中国人は、自己中心的人間である事、改めて示したようなものだが、結果に影響しなかったとはいえ、嫌なものである。

 複合の渡部選手は金メダルを期待され、私も期待する一人だったが、こういう事もあるという、競合選手たちの位置関係で、メダルさえ取れないという、そういうケースを改めて知らされたのだが、これこそ、図抜けた力がなければ、金メダルを常には取れない、そういう競技である事、知らされた。一般のスキーヤー程度では風の抵抗などあまり気にもならないというか気づきもしなかったのだが、一人で前を走るのと、風の抵抗を順番に受けて体力の低下を極力抑えるチーム走行の差が素人にもよく分かった。そういう意味で他の日本選手と協力できなかった渡部選手は不運だったという事で、ワールドカップで総合一位を走っていても、本番はままならない、そういう事か。

その風の抵抗というものが如実に表れるのがスピードスケートらしい。まあ、普通の人は風を切るほどのスピードを出してスケートをしたことはないと思うので、分からないと思うが、それだけにいかに風の抵抗を減らすかがスピードスケートの課題らしい。そういう中、小平選手が、理論と経験の積み重ねで安定した成績を500メートルで出していた事、裏付けがあっての事なので、金メダルが確実な事わかっていたが、それでも取るまではわからない。そういう中で、スターターを務めた韓国人のおっさん、何を考えているのだろうか、と思った。こういう人物たちを見るたびに韓国人や中国人というもの、相手にする人種ではない、そう思ってしまう。
その後の報道で、小平選手のスタート時に何が起きたのか、指摘されたが、スターターを務めたことがある人ならライブでのスタート時の間の悪さですぐにわかったはずである。小平選手の組だけ、スターターはタイミングを1秒近く遅らせた。結果、小平選手は待ちきれずに少し動いてしまった。つまり集中して力を出すところ、タイミングがずれて、そのまま100%の力でスタートをしたというわけではないのだ。短距離において少しのタイミングのずれとスタートダッシュを100%でできなかったのは、致命傷である。陸上競技でもそうだが短距離種目では、おおよそこの辺という、スタートのタイミングがある。スターターを務める人物であれば、そんな事指摘されずとも承知である。つまりこのスターターは意図して1秒近く、タイミングをずらしている。何故か?
小平選手のライバルである韓国選手を勝たせたいために、小平選手が実力通りの走りをしては困るからである。であったにもかかわらず小平選手は僅差ではなくしっかりと差をつけて金メダルを取ったのだから、さすがである。しかも自分の滑走が済んだ後にはライバルの韓国選手への気配りまでしている。韓国選手が十分な実力を発揮して、その上で金メダルを取るというのが小平選手の心持であったと思う。そして、それだけの実力を小平選手は持っていると自身の力を信じていたのだろう。

 逆に言えば、ワールドカップの勝負の場に何度か立ち会った事があるに違いない韓国人スターターには、フェアな勝負では韓国選手が勝てないと踏んだからこその姑息なスタートのやり方に違いない、という事か。そこまでしても韓国選手は勝てなかった、その結果は韓国人スターターには、どのように受け止められただろうか。仮にそういう事で勝った場合、小平選手であれば、素直には喜ばないと思うが、当該スターターや韓国選手及び韓国民はどうなのだろうか。日本人ほどのフェアさを彼らには感じないのは、逆に日本人として嬉しい、という事にいなるのだろうか。オリンピックの競技を見ていて、そういう事を思うのは何だか、虚しいものである。
 小平選手の理論は、相撲でもスキーでも通用するものであり、よくそこに行きついた、と感心している。私? もちろん、わかっていたが、いやいや、ボクシングや野球で実践していたものとは、違っていたので、その違いの意味が分かったのは、琴欧州がなぜ勝てなくなったのか、それを気にしていて気づいた、そう言った方がいいかもしれないのだが、それがスケートでも取り入れられることは知らなかったので、小平選手、頭もよいのだと思っている。
 この理論はスキーをやった人なら、ああ、なるほど、とすぐにわかるものだが、高梨選手、その境地に行っても勝てなかったのか、どうか。しかし、小平選手は安定して勝っているのだから、高梨選手にも、早く元に戻ってほしい、そういう思いがある。プレッシャーは与えたくないが、金メダルを取って心から喜ぶシーンを見てみたい。

 冬のオリンピックは自然に左右される事も多いので、メダルラッシュなどとたいしたメダル数でもないのに新聞テレビが騒ぎ立てずに、実力があっても運に左右される、だからこそ、結果としての単なるメダル数のみに一喜一憂せずに中身に、より言及する姿勢を持ってほしいものである。


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寛容の心 [所感]

寛容の心、などと私が書くと、まずはお前が実践しろなどと言う声がどこかから聞こえてきそうだが、ブログの中で、これまでも子供帰りした社会と、寛容さを失いつつある現代社会を評してきたのだが、今年は、これに極まれり、そういう年であったかと思う。

社会正義も何もなく、ただただ、のぞき趣味的嗜好で政治家や芸能人たちの不倫騒動というものを流し続けて、それに乗ってきた週刊誌、テレビ。

くだらないなあ、そう思っていたら、将来は初の女性首相とも目され、いや期待感もあった小池百合子がなんと排除の論理を流し、排除発言自体の政治的姿勢は正しいなどと、言う輩も出てくる始末。

四横綱揃い踏みの相撲が見られるかと期待した九州場所が早くから横綱鶴竜や稀勢の里の脱落が伝えられて、期待を裏切りつつあったその場所が、残った二横綱のうちの日馬富士が暴行問題絡みで休場となり、何とも寝覚めの悪い場所になってしまった。しかし、相撲とは別の話がいただけない。

相撲道、いや貴乃花本人曰くの角道(ワードではこういう熟語は出てこないので、ほとんど語られない言葉という事か)とは、かくも狭量の精神なのかと思わせる頑なさは、子供帰りの最たるものか。

国家や、国民に関しての話は妥協してはならない、そういうものがあり、それに無関心だったり、権力の言うなりになったというものが350万の命を失う戦争と結びついたのであり、こういう事に関して、大人の対応など必要はない。

しかし、貴乃花の考え方ややり方はいかにも私を貶めた警察、検察と通じていて、違和感を感じるのだ。

これまでも機会があるごとに私が陥れられた裁判について内容を語ってきたが、一人暮らしで、家族はわからない、そういう話をされて、こいつが勝手に突っ込んできたから自業自得だ、そう言い放てる人物はいないと思う。
人命優先で対処した私に対して、警察、検察、裁判官たちは事実もわからなかったりあるいは事実をねじ曲げる、はたまた公判前であるにもかかわらず、勝手に懲らしめてやれ、そういう対応をしたものである。したがって裁判官達は自分たちの判断ミスを棚に上げるために、有罪にするためのでっち上げとそういう材料しか取り上げなかったが、自力で生活のできない年寄りを抱えている私への配慮など、一切なかった。

私が警察や検察、裁判官そして相手側への謝罪を求めている理由は、彼らのやった事が常識を超えており犯罪の域まで達したからである。

先鋭的に見える私でさえ、相手の責任など一切問わない、とにかく自爆行為であっても元気になってほしい、そう伝えたはずだが、そこには寛容の気持ちがあった。

市民同士という事であれば、相手に刑事罰をできるだけ問わないように考えるのが私なのである。警察が絡むから話がややこしくなる。

江戸の昔で言っても、名奉行として名高い大岡裁きや桜吹雪の遠山の金さんが庶民に人気が高いのは、不要な咎人を作らない、その事に尽きる。だからと不公平感のある裁きをしたという事ではない。人というものを大事にするからこそのはずなのだが、評判の悪い火付け盗賊改めでも長谷川平蔵は、咎人に人気があったという。

人足寄せ場、つまり寄せ場送りになるとそれが咎人として罰のような感覚が時代劇ではあるが実際には、咎人の再犯が、手に職のない事からくるものだと、寄せ場で手に職をつけさせる等、相手の身になって対応した、という事らしい。相手の身になってというものでは、咎人の顔に手ぬぐいをかけて顔を隠してやったという話があり、そういうものなどが、とかく評判の悪い火盗改めの中から小説の主人公に取り上げられたのだろう。

いずれも寛容の心があり、庶民をむやみに罪に落とすという事からは遠かったのだと思う。

頑なに誰が加害者でだれが被害者か警察に捜査してもらうとい話。警察にそんな捜査能力などありはしない。自身の目的のためなら協会だろうと力士あるいは横綱だろうとそんなもの関係ない、そのように私には見えるのだが、こういう風潮、当たり前のようにならなければいいが。

で、モリカケ問題、どうなった?
まさか安倍晋三から貴乃花にもっと引っ張るように依頼があったとは思いたくないが、マスコミも焦点を当てて突き詰める対象が違うんでないの。

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類は友を呼ぶ? [日記]

類は友を呼ぶ

さて、今回、私は何を言いたいのでしょうか。
類?
友?
最近の話題の中で友が入るのはカケトモ問題の友、すなわち森友学園でしょうか。

確かに森友学園の理事長であった籠池氏のおかしな懐古調の教育に関してその内容で類として安倍晋三夫妻はあてはまるかもしれません。
まあ、所詮、安倍晋三なんてそんなものですよ。

今回の主役も安倍晋三になりそうですが、類としての人物は籠池氏ではありません。

解釈の違いのようなことを言って平気で約束を破ったり、実質憲法違反(臨時国会の招集について、その義務を果たさずに国会解散をした)等、誠意がないというよりは嘘を平気でつく、そのように誠実な人間であれと躾けられた私などには映る人物が安倍晋三なのだが、ここまで書けばさて、類として挙げられる友とは? おわかりでしょう、アメリカの現大統領ですね。

民主国家にあるまじの大統領ですが、安倍晋三もとても民主国家の行政を負託された人物とは思えない国民に縛りを入れたり、国民を不幸にしていく方向の事しかしていない行政府の長です。

ちょっと見方が違うだろ、そう思いますか?
大山鳴動、鼠も出なかったロシアのプーチンの訪日。覚えていますか。友人として呼んだけれど、さて、金をかけて何が収穫であったのか。単に安倍晋三の友人を呼んだ、それだけ。その友人である、プーチン。

世界が反対しても強引にクリミア併合をやり、その延長線上の軍事的行動はまだ続いています。
トランプもプーチンも安倍も唯我独尊、全体主義的行動を起こし、一部の人たちの利益を図り、国民に縛りをかけていく。

表面上、トランプの受けはいいけれども欧州の先進諸国の首脳は安倍晋三の行動には顔をしかめています。つまり民主主義とか人権とかあるいは世界平和というものからは遠い人物、そのように評されているという事です。

あれ? このように属性を羅列してみると、ぴったり当てはまるのに、大きな国の首脳で、ここに挙げられていない人物がいますね。
そう、習近平です。
あまりに近いので友にはならず、電気イオンのプラス同士あるいはマイナス同士の関係で反発するのでしょうか。しかし、同類であることに間違いはなく、どこかで近づく可能性が無きにしも非ずという事になるのでしょうか。

いずれにしろ国民を置き去りにする行政責任者という事では一致するわけですが、何故こうも進化とは程遠い人物ばかりが大きな国の首脳になるのでしょう。人類に先がない事を示唆しているのかもしれません。


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感覚の違いだけだろうか? [所感]

日馬富士の暴行問題で意見を述べた全ての人間が暴行したのは悪い、とまあ最初に紋切調に述べていたのだが、本当にインタビューやコメントを求められた全ての人間がそう言ったのかは、わからない。もちろんテレビのコメンテーターの場合、生番組での発言だから、見たまんま、そういう事だろう。

だが、新聞や街頭インタビューは、編集可能なので額面通りかどうかはわからない。それでもテレビの影響力を考えれば、暴力は悪い、そのようにコメンテーターやゲスト出演者たちが言っているのと反対の話を言う人は少ないだろうから、やはり影響されて、話の一番にもってくる(不思議と、まず、この事を言ってから当たり障りのない事を言うか、それだけでコメントが終わったりしていた)のである。

で、今回の件、日本国内ではあってもモンゴル人同士、あるいは相撲という特殊な職業に関わっている人たちの話だと思うのだが、感覚の違いというのを感じないだろうか。

モンゴルが文化的に遅れているなどという気はない。だが国情、国民性の違いはある筈であり、社会性の違いもあるのではないかと思う。

日本でだって、ついこの間まで、教師は平気で体罰をしていたし、自ら暴力を振るったことのない私にでさえ、教師は自身の勝手な勘違いで、厚い教科書の背部分で頭を叩いたり、胸を突きとばしたり、こういう事をやっていた。しかし、他の教師の誰からも批判は出てこないし、教師が謝罪したこともないし、ましてや処分などあり得なかった。
 社会の劣化を考えると、私の時代から教師が格段に良くなったとも思えない現状において、そういう体罰が皆無になったとも思えないのだが、では一般社会でも暴力はないのか?

 全く下らないし、見ていて不快だと思わせるものに、能無し芸人たちのお笑いと称するものがある。
 全く無意味な造語であるイケメン、などとは程遠い面相であるのにジャ何とか言う芸能事務所のメンバーであるというだけでイケメンなる修飾語のつくタレントがいたりするが、かつての映画俳優たちはどうだったかというと、二枚目が見事に主役を張っていた。しかし、その二枚目は本当にいわゆるハンサムであり、嫌みのないいい顔立ちをしていたものである。今のイケメンという修飾語は、そのハンサムを思わせる言葉なのだが、実態は程遠い。別にハンサムでもないものを無理してイケメンなどと称する文化を作るよりも、昔だって個性派俳優とかいって独自の境地や演技を見せていたりあるいは主役を張っている俳優はいたのだから、イケメンなどというものでタレントの価値を上げる必要はないと思う。かつてのアメリカでも美男美女が主役や相手役を務めていたが、今、そういう美男美女ばかりが主役を演じているかというとそうではない。つまりリアリティーというものが映画の中でより重んじられるようになると、個性派といったらいいか、いわゆる演技派といった方がいいのかもしれない、そういう俳優たちが主役を演じる事の方が増えたと思う。
 で、同様にテレビの世界を席巻しているもう一つが、関西系の事務所所属に多いのが、能無し芸の代わりに、叩く等で笑いをとる行為である。叩くという行為、お互いの打ち合わせの元あるいは了解のもとに行えば、暴力でもなんでもない? 他人をけなしたり叩いたり、そういう事での所作が笑いを取れる、いや実際笑っている視聴者も多いかもしれないが、これってレベルが低すぎるし、そういう事に鈍感であるのに、何故、日馬富士の件では敏感?
 しかし、そういう芸人がテレビ局でメインのキャスターを委ねられて、出演するゲストの口をふさいだり叩いたり、こういう行為をたしなめる論調を聞いたことがない。
 今回、NHKを含めて全てのテレビ局で加害者とか暴行あるいは障害、と日馬富士の行為について、まずは断罪している、その範疇には、こういう芸無し芸人の行為は入らないのだろうか。見たくもない芸無し芸人がテレビ番組のあちこちに勝手に出てきて、相手を叩く行為を漫才として日常的に見せられている身にとって、異常なまでの反応を見せるテレビ局とは一体何だろうか、そういう気がしている。
たぶん、日馬富士の行為はモンゴルでは、それほど大きく取り上げるほどの行為ではなかったのだろう。中国から広大な中央アジアを制圧してヨーロッパまで進出したようなモンゴルの人たちにとっては、血が騒いだり、多少腕力沙汰になるようなことは、大目に見るような事であるのかもしれない。

何度もこのブログで書いたが、中東のサウジアラビアの人間など、他人を尊重するものなどなく、自分の欲望や都合で他人のものにでも平気で手を出す。こういう文化を知らないと、余計な摩擦あるいはトラブルをひたすら大きくするだけになる。
 一度手打ちをしたかに見えたもの、わざわざ大きくするよりも別の手立てを尽くす頭が関係者、つまり貴ノ岩の親方になかったのか。
相撲ファンとしてはあまりの独善ぶりに、何だろうか、そう見ているのだが、まあ、次の場所では何とか日本人力士が意地を見せて場所を盛り上げてほしいものである。

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ぼけ老人のたわ言 [日記]

ぼけ老人の戯言

今の唯我独尊、気配りのない社会、人を尊重する事のない社会を作り、社会を劣化させ続けている政治家たちを見れば、私の方がよっぽどましなどというレベルではなく、“政治とはこういうものだ”そのようにプロと称している政治家たちに本物を見せつけてやりたいと、「私を首相に」そのように本当の政治というものさえわからない連中の冷笑を承知で言い続けてきた私なのだが、持病があり、その持病に対する処方の薬が、効いているのか効いていないのか、わからないままに、最近では、自身のボケを認識し始めている。

つまり、人後に落ちないとか、余人をもって代えがたい政治を行えるなどとは言えないレベルに認知力が落ちてしまっているので、今後は、私を首相になどという発言は慎もうと思っている。だから代わりに、期待できるリーダーに出てきてほしい。

で、話変わるのだが、医者というものは本当に患者の事を思って治療行為を行っているだろうか、という事である。

私がボケを認知しだしたのは、今のクズ医者に掛かってからだが、薬が増えることはあっても減る事はない。

たいていのケースで副作用等、処方薬のマイナス状況は後になってから出てくるので、致命的症状でなければできるだけ人体自身が持つ回復力に委ねたりあるいは、そのための補助薬程度に収めて、それも早期に止める方向にもっていくのが筋ではないか、そう思うのだが、どうだろうか。

先生、先生ともてはやされるからなのか、あるいはもともとそうなのか、傲岸で人の話を聞かずに、少しでも疑問を呈すると声を荒げて一方的に話し出す医者(自信あるいは適切な回答を持たないことの裏返しか)が、残念ながら今、私が掛かっている医者なので、社会のためには早期にこういう人物には医者の世界からお引き取り願いたいと思うのだが、いやいや、そういう医者を排除したら、世の中の医者と称する人物はほとんどいなくなるかも。皆無ではなくほとんどというのは、親切丁寧な医師も知っているし、その医者はいつまでもだらだら通院させるような処置を行っていないので、私なりにいい医者と思っている。だが、開業医の多くは多くの患者が不満を秘めるようなそういう対応、そんなレベルが多いのではないかと思う。

あ、これは一般の開業医の話で、しっかりした病院ともなれば、おかしな医者はいづらくなるらしい。

老母も違う町医者に掛かっているが、通院の度に大量の薬の処方を受けている。これって、患者のためか、医薬両業界のためなのか。

いやいや、ぼけ老人の戯言と聞き流してほしい話だが、これからがもっと思いやられる。たぶん、1年以内にはご飯代わりの薬をたらふく毎日食べて、パソコンも扱えないほどに認知能力が衰えているに違いない。その場合、だれが責任を負ッテくれるのかと言えば、今の社会保障制度では、知らないよ、そういう事になるらしい。

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言い訳 [日記]

“言い訳”は、この私の、総選挙絡みの、見誤った事に対する男らしくない言い訳の話である。
おおおそ、人を見誤った事のない私、と言っても基本的に善人説に立つ(このブログでは辛辣な事ばかり書いているので、そう思われないだろうが、実は、お人好しの裏返しで、辛辣な事を書いている)、その観点で見るので、その点での裏切られることは多い。おおよそ、見立てに狂いのないのは能力査定という点だろうか、などと男らしくない言い訳に終始する今回の情けないブログなのだが。

小池百合子という人物、大物で首相の器があり、国のかじ取りを付託するに足る女性政治家、そのように都知事選を闘う姿を見て、私は思ったのだ。父親が米軍相手の基地闘争での闘士という友人も、都知事選では「今回は私も小池百合子に投票した」そのように語ったものだ。有力な女性政治家が出てくることを、能力があれば喜ばしい事、私は、当時、そのように見た。
さて、以下は総選挙で、落胆した私の作り上げた陰謀説、これをもって総選挙の総括とするものなのだが。


首相を務めるAは、自身や自身の夫人が絡む学校建設問題で大きく支持率を落としたことから、悲願である、憲法改正を自身の手で行うそのタイミングや、環境作りについて、新たな総選挙での自身の与党を大勝させる形というものを探っていた。総選挙は任期切れに近づくにつれて、解散の選択肢が狭まるので、与党の負けを最小にするタイミングが重要だと、Aは考えていたのだ。ここには国民の負託を受けた首相などという考えはない。ただひたすら与党の負けを最小にするタイミングを狙っていたのだが、幸運な事に、最大野党が、自滅の道を辿りつつあり、野党再編がある可能性も出てきたので、野党側の体制が整う前に解散総選挙に打って出るのが、ベスト、そのように結論を出した。野党第一党が自滅気味であっても前回参院選で野党統一候補には苦しめられており、最大野党の党内がまとまる前に解散総選挙に打って出るタイミング、そのように判断したのだ。
 ただ、総選挙という事になると、一挙に野党がまとまって野党統一候補を出してくる恐れがある。それがなれば、かなりの苦戦、それも下野につながる可能性がない事もないほど、あるいは勝ったとしても責任論等で首相の剤にとどまる事さえ危うい。そこでAはもう一手を打つことにした。
野党分断作戦である。Aは国政に強い関心を持つ都知事のKに声をかけて、新党の発足を促した。
ここで行われた密約が
1、野党を分断させる事
2.比例復活を行えないように無所属での立候補を増やす事

これが成れば野党大勝の目はなく、Aは悲願の憲法改正に着手できる事になる。そして憲法改正はKの持論でもあり、異存はなく、さらに言えば、Aは、その代わりにAの後の首相にKを押すことを約束した。Kは現在の職である、都知事職を主催責任者であるオリンピックまで行い、その近辺のタイミングの良い時期にAが画策して衆院の補選を行う、その補選に出て国会議員となった後、Aが首相を辞した後の与党総裁選でKを押す総裁選で首相になる、そういう密約がAとKの間に出来上がり、急ぎAは解散の話を世間にリークし、Kは国政政党を主催する話を出すことになった。
つまりKの人気でKが作る新党に野党の国会議員が乗れば、ちょうど良いタイミングで他の野党からの新党への移籍に制限を設けるという事で、所属先のなくなる大勢の野党議員が路頭に迷う事になり、結局所属先のなくなった野党議員たちは無所属で闘わざるを得なく、選挙資金や比例復活という事でのハンディを負う事になり、当然与党が大勝することになる。
以上の話でAを安倍晋三に、Kを小池百合子に置き換えれば、かくして密約の実行になって、読者諸氏も知る選挙結果になった、そういう事になる。唯一の誤算は、立憲民主党なる政党が、思いの外、早く立ち上がった事、そして意外なほどの支持を集めた、そういう事だろうか。
とまあ、思うようにならなかった総選挙についての私の負け惜しみ解説なのだが、書いた私自身が、こんな事はなかったんだろうな、そう思っている。
何故ならば、安倍にそれだけの頭脳があるとは思えないからだが、昭和30,40年代の自民党ならば、あったかもね、そういうところか。
ちなみに、小池百合子はリベラルを過少評価し過ぎた。自民党の絶対的支持層は最大20%程度であり、保守だけで国政を二分する政党などできはしない。だいたい自由民主党という名を冠した政党にも属していたのに、リベラルを排除などと、何だろうかと思うが、国政を担うならば排除の論理など論外である。右から左まで国民は分布しているのだから、丁寧に国民の負託にこたえる、これが国政に参加する政党の義務であること忘れまじ。

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不祥事に名を連ねた東レという会社 [所感]

日本のメーカーの信用度が日に日に落ちていくのではないかという、メーカーの製品出荷に関しての不正が発覚している。

東レという会社、そんなに悪い会社だったのだろうか?

かつてバブルに踊った日本。実体経済ではなくマネーゲームに踊り、日本の金でアメリカが買える、そのように言われるほど金が巷にあふれていた。いや、庶民のところではなく、マネーゲームに踊った金融機関や他の企業にも。

他の企業とは何ぞや?

庶民から土地を買い上げて、その土地にでっかいビルを建てて、高額で売り買いあるいは貸して、多額の利益を上げる、そしてそのプロセスに絡めばどんな企業も本業よりも多額の利益が出る、そういう世の中の流れの中で、財テクをしない手はない、そのように多くの企業が、そのプロセスに関与し、その担い手である企業の中の財務部門がもてはやされ、メーカーも本業の製品への注力よりも財テクに注力、財テク部門が出世の近道のようになっていた。

こういう時代に地道に努力をしていた企業があった。いや、この会社だけではなく、他にも同様の企業はあったのだと思うが、マスコミに大きく取り上げられた企業という意味で、名を挙げられたのが、東レ。

わが社はメーカーなので、本業で利益を上げるのが本筋であり、財テクはしません、という趣旨の事を当時の東レの社長はマスコミの取材に対して述べている。立派である。

さて、それから時代が下って、名門企業として経団連の中でも主要な地位を占めた東レが、今、その経団連会長としてトップを張っている。

屑である。

今の経団連トップを張っている人物が東レの社長、会長という時代に、東レの系列企業の不祥事が行われている。

この人物、安倍晋三の武器輸出三原則いや、言い換えよう、武器禁輸という縛りを大きく緩める政策に真っ先にもろ手を挙げて賛成と、表明した人物であり、こいつにして今回の事(いずれおかしなことが表面化するのではないかという事)、ありなん、そう思わせた人物である。

長く他国の人命も自国の人命も戦争で失わせていない平和国家、そのように世界に誇っていた国が、人命を損なう武器を輸出して金を稼ぐ? 恥ずかしい事ではないのか。

多くの日本人は武士階級に属してはいなかったはずなのに、何かと、武士を標榜する、最近のスポーツでの日本代表チームへの冠のつけ方を考えれば、日本すなわち平和国家、という印象は日本人にとってはとても大事なものなのではないだろうか。

世界が平和であってこそ、日本がその平和と繁栄に貢献する製品で、日本自体も繁栄の道を探る、それが戦後の日本の一貫した姿勢であったはずなのだ。

それを経済面で支えるべき経済団体のトップが、人命を損なう事の対価として金を稼ぐという政策にもろ手を挙げて賛成する、こんな見識のない人物が経団連のトップでは、やはり日本の企業トップがいかにレベルが低いか、見識の高い人物がいないか、分かろうものである。

末端のやった事にまでトップは責任を負えない、そういう見方もあるし、それを良しとすることを否定はしない。しかし、トップが変わった途端に社内の空気、雰囲気がガラリと変わる、というのも事実である。

メーカーの責任を感じないトップの下では、一気に落ちてはいかなくても、名門という名に恥じなかった企業でさえも、最終的には不祥事の起こる体質に変わってしまうのだ。

自動車会社として世界一の売り上げを誇るトヨタでさえ、小泉改革に賛同していたトップの元、大衆車で儲けなくてもいい、アメリカで価格の高い車が売れればいいんだ、と当時のトップが、嘯いたその結果が、企業体質を落とし、今の社長の着任時に涙を流しての謝罪会見につながるような、そういう事になっている。そういう事、対岸の火事と、多くの企業は看過しているのだろうか。

しかし、私の身近にも不正は蔓延していたし、それを正すべく行動する人間は私の周囲にはいなかった。
私?
以前からこのブログで言っているように、正義の人ですよ。はっきり言ってその正義に心情的には賛同する、そう言ってくれた人物がいなかったわけではないけれども、行動を共にした人物はいませんでしたねえ。それが日本社会、そう思ってます。
企業の中では頭の悪い奴、悪い奴、ずるい奴ほど上に行きましたねえ。
ソネブロで企業の不正を告発している人たちの気持ち、よくわかります。事なかれでは、世の中、よくはならないんですけど、であるのに、政治が悪い? 行動を起こしましょうよ。

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